2022年05月19日

【映画評】アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督<自己検閲>版

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期待していたのに「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」並にがっかり。

アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ

イントロダクション
第71回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞!2022年米アカデミー賞Rルーマニア代表作品!ニューヨークタイムズが選ぶ2021年ベスト2位選出!タブーを打ち破る大論争コメディ(ハリウッド・レポーター) 世界は卑猥に満ちているけれど? ベルリン国際映画祭金熊賞受賞の禁断の映画、ついに公開!
2021年ベルリン国際映画祭は、冒頭のあけすけな本番セックスシーン(日本公開版は監督による検閲版)に始まる、この挑戦的なルーマニア映画『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』に金熊賞を授与した。その後世界で大きな反響を呼び、本国ルーマニアの米アカデミー賞代表作品選出、ニューヨークタイムズが選ぶ2021年ベスト2位作品にも選出(6位は『ドライブ・マイ・カー』)されるなど、その快進撃は止まることを知らない。決して口当たりのいい映画ではないのに、世界が同時に経験したパンデミックとその後の社会の閉塞感を、“卑猥”とは何か?と改めて問いかけることで読み解こうとしたこの映画への、人々の共感が絶賛という形になった。

ストーリー
パンデミックは人間の性(さが)をあぶり出す―― ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督が放つ、類をみない傑作
ルーマニア、ブカレスト。名門校の教師であるエミは、コロナ禍の街をさまよい歩いていた。夫とのプライベートセックスビデオが、意図せずパソコンよりネットに流失。生徒や親の目に触れることとなり、保護者会のための事情説明に校長宅に向かっているのだ。しかしそこにはブカレストの街を漂流するかのように、エミの歩く姿が映し出されるだけだ。彼女の抱える不安や苛立ちは、街ゆく人々も共有する怒りと絶望であり、さらにはその街、引いては世界の感情そのもののようであった。猥雑で、汚れ、怒りを孕んだ空気が徐々に膨れ上がっていく…。

ルーマニアの鬼才ともいうべきラドゥ・ジューデ監督は、そうした社会の胎動をエミに託し、いきなりのハードなセックスシーンをプロローグとして、続けて物語を三つのパートに分けていく。

さらに三つの結末を用意する“マルチエンディング”で、監督はポルノグラフィという問題をブラックコメディとして見せ、映画を終息させる。コロナ禍で浮き彫りにされた社会の偽善や偏見を露見させ、類を見ない傑作の誕生となった。

プロダクションノート
起源
この映画は、友人たちとの長い議論から生まれました。友人達との間でライブカム・セックスチャットやアマチュアポルノ録画をインターネットに投稿するなど、私生活でやっていたことが原因で教師が学校から追放されるという、ルーマニアや他の国で実際に起こった話が何度か話題に上がりました。

我々の議論は毎回白熱したため、些細で浅はかなように思えるこの話題が、これほどまでに大きなリアクションを生み出すのであればきっと何かがあるに違いないと考えたのがこの映画を作るきっかけとなりました。これで私があの終わりなき議論に決着をつけることができたでしょう。

この映画には3つのパートがあり、それぞれが詩的に互いと関わり合っています。マルローの定義によれば「詩的」とは次のようなものです。「真の詩とは間違いなく全て非合理的である。なぜならそれはすでに“確立された”物事の関係を、新しい関係のシステムで代用するのだから」。

コロナ禍での撮影
ルーマニアでは5月末に最初のロックダウンが終わり、10月と11月に撮影する予定でした。コロナの状況が今後また悪化した場合に撮影を延期するリスクを冒してでも計画通りにする(つまりは追加資金を集めて)のか、あるいは手持ちの資金で時期を早めて撮影するのか、私とプロデューサーのアダ・ソロモンは決断を迫られました。私たちは後者を選択し、前倒しで撮影の準備に取り掛かりました。感染者の数がまた増えてきていたので、人々との関わり方も考えなければなりませんでした。私は、監督としてキャストやスタッフに対する責任がありますから。

私は若い頃、『東への道』や『アギーレ/神の怒り』、『地獄の黙示録』などの撮影方法を本で読んでそのクレイジーさにとても憧れていました。今でも憧れはありますが、私は小心者なので撮影の際に誰かの命や健康を危険にさらすことはできません。たとえそれが普通の風邪だったとしても、健康を冒してまで作る価値のある映画はないと思っていますし、私の大したことない映画のためならなおさらです。そんな思いから、キャスティングもリハーサルもすべてZoomで行い、キャストを含め、全てのスタッフにマスクをしてもらうことにしました。第一に、この映画は現代を映し出すものであって欲しかったし、マスクが日常生活の一部となったこの瞬間を切り取り、マスク着用時代の人類学的側面を捉えたかったのです。第二に、関係者の健康を守りたかったからです。スタッフの多くは、私のオファーに応えて映画に参加してくれていますからね。私はこの映画のホストであり、その責任を感じていました。ほとんどの人がこの感染対策に同意してくれました。中には重症化リスクの高い人もいましたが、ソーシャルディスタンスの確保を厳しく守ると私が約束したからこそ、この映画に参加してくれたのです。

撮影前に全員が新型コロナウィルスの検査を受け、さらに撮影中も2回検査を受けました。この頃街に出ると、開催されるはずだったコンサートのポスターや空っぽのレストランなど、存在するはずだった未来が存在しない現実をそこかしこで見ることができました。映画はこのように、物事を捉える可能性を持っています。時間の経過を切り取り、さまざまな方法でその瞬間をカプセル化することができるのです。

テーマ
猥褻とは何か、それをどのように定義するのか。映画の中で問題になったような小さな行為よりも、ある意味ではもっと猥褻な行為が私たちの身の回りに溢れています。アダルトビデオなどに代表されるいわゆる「猥褻なもの」は、私たちの身の回りにある気に留めないものに比べれば実は大したことはないのではないか、というのが私の考えでした。

この映画は、現代の物語、その中でも小さな物語を語っていますが、歴史的、社会的、政治的な要素から見ると、物語自体がより深い意味を持っています。「猥褻なもの」がテーマであるこの映画は、平凡なアマチュアポルノのいわゆる「猥褻」と、私たちの身の回りや近代史の至る所に溢れる「猥褻」なものとを、常に比較するよう観客に促しています。視聴者にはこの映画を通してこれらのモンタージュをしてほしいのです。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンはモンタージュについて非常に重要ことを書いていますが、それは私たちの映画にも当てはまるでしょう。

「モンタージュはまさに、歴史性を構築するというこの問題に対する基本的な回答の一つとなるだろう。モンタージュは単純化とは無縁であるため、神学から逃れ、レガシーやアナクラニズム、それぞれの物体、出来事、人物、運動に影響を与える一時性の矛盾した交点を可視化する力を持っている。それゆえ、歴史家は「物語」を語ることを否定するが、そうすることで、時間の複雑さ、すべての考古学的地層、運命の穿たれた断片のすべてなしには、歴史はありえないということを証明しているのである」




早速帰宅後にネットで無修正版を確認。確かに冒頭の「動画」は無修正での日本国内での配信は無理。理由はちんこ。とはいえフィナーレのディルド(シリコン製デカチン)を口に挿入するテロは修正いらんでしょう?何をやっているのかさっぱり分からんし、何より「uncensored」表示がダサすぎる。セックスシーンは何も表示されず幕間で意識高い系動画挿入の繰り返しで正直ドン引き。監督自己検閲版との事ですが客から金を貰って上映する以上、全面カットではなく最低限のマスク/モザイク処理とか日本の配給会社もアドバイス出来なかったんだろうか?まさに「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」の悪夢再び。鑑賞料300円程度の価値しかありません。面識すらない監督の遊びに付き合わされるこっちの身にもなれって。話の筋が飛ぼうが画面全体マスクせざるを得ない作品ならそもそも日本で商業上映するなよ。

満足度(5点満点)



Posted by kingcurtis 固定リンクComments(0)映画 
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