2022年01月17日

【映画評】クライ・マッチョ

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イーストウッド監督最新作です。
ご自身が出演された前作「運び屋」と比べると、さすがに足元おぼつかない感じは否めず。あんまり無理しないでね。

映画『クライ・マッチョ』公式サイト|絶賛公開中

イントロダクション
半世紀以上にわたり一線で活躍を続ける名優にして、『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』で監督として2度のアカデミー賞Rに輝いたクリント・イーストウッド。監督デビューから50年、40作目となるアニバーサリー作品『クライ・マッチョ』は、彼が監督・主演を務める新たなマスターピースだ。落ちぶれた元カウボーイと少年の旅を通して語られる人生とは―― 。喜びや悲しみを背負い、なお人生を歩み続ける。生きる上で必要な[強さ]とは何かを温かく、時にユーモラスに時に切なく語りかける。40年前から検討されていた原作の映画化に、イーストウッドが満を持して向き合った本作は、まさに彼の集大成にして新境地。2022年の年明けは、この感動から始まる!

ストーリー
誘拐から始まった少年との出会いが、二人の人生を大きく変えてゆく――
アメリカ、テキサス。
ロデオ界のスターだったマイクは落馬事故以来、数々の試練を乗り越えながら、孤独な独り暮らしをおくっていた。
そんなある日、元雇い主から、別れた妻に引き取られている十代の息子ラフォをメキシコから連れ戻してくれと依頼される。
犯罪スレスレの誘拐の仕事。それでも、元雇い主に恩義があるマイクは引き受けた。
男遊びに夢中な母に愛想をつかし、闘鶏用のニワトリとストリートで生きていたラフォはマイクとともに米国境への旅を始める。
そんな彼らに迫るメキシコ警察や、ラフォの母が放った追手。先に進むべきか、留まるべきか?
今、マイクは少年とともに、人生の岐路に立たされる―― 。


『クライ・マッチョ』のなかで、クリント・イーストウッドの扮するマイク・マイロが、少年ラフォに向かってこんな台詞を吐く場面がある。字幕ではこうなっていた。「人は自分をマッチョに見せたがる。……すべての答えを知ってる気になるが、老いと共に無知な自分を知る。気づいた時は手遅れなんだ」

イーストウッドの好みそうな台詞だ。昔から、映画のなかの彼はいくつも名台詞を吐いてきた。だれもが知っているのは、『ダーティハリー4』(1983)の「Go ahead, make my day.(撃ってみろ。望むところだ)」の一行だろう。タフガイの役が多かったせいか、初期のイーストウッドには勇ましい台詞が多い。だが、年齢を重ねるにつれて、もっと陰翳の深い台詞を口にするようになる。

たとえば、名作『許されざる者』(1992)のなかにはこんな台詞が出てくる。「人を殺すのは大変なことだ。相手のこれまでの人生をすべて奪い、未来までもそっくり奪うことになる」

あるいは、少しあとの『マディソン郡の橋』(1995)にも渋い台詞があった。「昔の夢はいい夢だった。成就しなかったが、見ていて楽しい夢だった」

だが、イーストウッドの本領は、アイロニーとふくみ笑いを伴う辛辣なひと言を放つときに発揮される。『グラン・トリノ』(2008)の主人公ウォルト・コワルスキーは、街角でからんできたチンピラにこう言う。「からんじゃいけない相手に、たまに出くわすときがあるってことに気づかないのか。俺がそういう相手だよ」

あるいは『運び屋』(2018)の中で、思わずくすりとさせられたこんな台詞。「100まで生きたいと思う奴は、99歳の老人だけだ」

人生の深淵を覗かせる言葉も、相手をあっさり武装解除させてしまう減らず口も、イーストウッドにはよく似合う。彼は、アクションの達人であると同時に、言葉の達人でもあった。映画のなかだけでなく、過去のインタヴューなどでの発言にも面白いものが多い。締めくくりに、少しだけ紹介しておこう。「私はペシミズムを信じない。事態が思うように運ばないときは、前に進め。雨が降りそうだと思うと、本当に降るものだ」

もうひとつ、おまけを。「道理をわきまえた人間になろうとしたことはあった。でも、そんな自分が気に入らなくてね」

心の深みを測り直す知恵 文=芝山幹郎(評論家・翻訳家)
イーストウッドの背後にイーストウッドが見える。見るなといわれても、見えてしまう。もし、『クライ・マッチョ』で初めてイーストウッドという俳優を知ったとしたら、私は一体どんな印象を抱くのだろう。強靱と思うか。透明と思うか。それとも異様と思うのか。
だが私は、1950年代から彼の姿を見つづけてきた。幼時も青年時代も中年期も、そして年老いてからも、イーストウッドはいつも私の前を歩んでいた。
タフガイだったり、ゴーストだったり、人生の導師だったり、謎の男だったり……姿形はその都度異なっても、イーストウッドならではの平叙体に変化はなかった。自身の背中で「映画の風」を感じ取り、その風を信じる帆船のように、大股で悠然と歩んでいた。
その歩調は『クライ・マッチョ』でも変わっていない。銃は撃たないし、鉄拳もあまり振るわないが、10時10分の角度で車のステアリングを握り、馬や犬や羊の鼻面をそっと撫でるイーストウッドの手は、『ダーティハリー』や、『ブロンコ・ビリー』や、『許されざる者』に出てきた手とつながっている。
いいかえれば、イーストウッドは年齢を言い訳にしていない。衰えは衰えとして受け止めつつ、そのときどきに可能な最良の形をクールに示している。だからこそ、彼は眼の輝きを失わない。心の深みを何度も測り直したかのような知恵の光が、後方を歩むわれわれの足もとを照らしつづけてくれる。




「40年前から検討」って、イーストウッドがせめて齢60歳台ならまだ様になっていたかもしれないけど、今の年齢は訳あり元カウボーイ役はちょっとつらい。作品自体も過去作と比べてもちょっと小ぢんまり感は否めず。クオリティ的に例えるならNetflixのオリジナル映画サイズ。ただメッセージは頑として「マッチョと優しさ」なんだけどね。人間よりマッチョな鶏に助けられるみたいな(笑)。後半の主軸となるラブロマンスはちょっと年齢差の違和感あるよねー

面白いのが日頃威勢がいいリベラル映画評論家が一様にだんまりな事。「クリント・イーストウッドウッドはアメリカのネトウヨだ」って批評すればいいのになんか都合が悪いんか?

ということで当ブログでは引き続きクリント・イーストウッド監督作品は全て劇場鑑賞を続ける方針です。監督、頑張ってね。

満足度(5点満点)
☆☆


Posted by kingcurtis 固定リンクComments(1)映画 
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コメント
「アカルイ・マッチョ」を誰かが作ると思う。
Posted by 言いたいだけ at 2022年01月17日 18:17
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