2017年02月20日

【生放送公開自殺】美人キャスター”クリスティーン・チュバック”自伝映画「クリスティーン(原題)」の影響?40年間封印され続けた自殺動画が突然リーク

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Christine
Christine

これは凄い。
偶然ですが数ヶ月前、当該映画(日本以外の主要各国上映終了)レビュー観た影響で個人的好奇心に駆られ海外サイトで「チュバック自殺動画/写真」を探していたのは私です。記憶に頼りますと海外収集家談として、当時(1974年)は家庭用ビデオレコーダーが普及していない且つ、自殺が生放送中突然だったので視聴者サイドで番組を録画している者は皆無。局側が録画したフィルムは遺族へ渡され門外不出。40年間未だに一度も表に出たことがないのでコピーもないのだろう。という幻のコンテンツ。

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女性キャスターが生放送中に自殺…何が彼女をそうさせたのか【第41回トロント国際映画祭】 - シネマトゥデイ
2016年9月15日

 現地時間14日、生放送のニュース番組中に自殺したキャスター、クリスティーン・チュバックが凶行に及ぶまでを追った映画『クリスティーン(原題) / Christine』が第41回トロント国際映画祭で上映され、主演のレベッカ・ホール(『ザ・タウン』)、アントニオ・カンポス監督(『マーサ、あるいはマーシー・メイ』のプロデューサー)らがQ&Aに登壇した。

 事件が起きたのは1974年7月15日のこと。フロリダのニュースキャスターだったクリスティーンは番組の生放送中、自ら自殺すると読み上げてから頭部を撃ち抜いた。劇中では、30歳の誕生日を前に仕事でも私生活でも成功することを夢見るものの、プライベートはほとんど母親と暮らす家と職場の行き来のみで、深刻な婦人科疾患も発覚、情熱を傾ける仕事でもやりたいことができずに局内の人たちとギクシャクし、どんどん暗闇から抜け出せなくなっていくクリスティーンの姿が映し出される。

 そんな難役に挑んだレベッカだが、初めに話を聞いたときは二つの相反する感情が湧き起こったという。「最初にエージェントから送られてきた物語の概要を読んだときには、とても辛辣な反応をしたの。この映画を作るのにどんな意味があるのか、って感じた。読んだものはクリスティーン・チュバックについてググった人たちとたぶん同じもので、5行くらいでショッキングなことだけ書いてあり、彼女の人間性を奪っていたから。でも突然、彼女に人間性を与えなくてはいけないとも思ったの」。

 そして実際の脚本を読んでみると「想像を超えた内容だった」といい、「とてもクリアに描かれていて深く共鳴でき、当時のアメリカのセンセーショナリズムについての映画でもあり、“成功した女性”の標準に合わない女性であることがどういうことかについての映画でもあり、環境に順応できなことの苦しみについて、そして現在でも人々が話すことをためらうような複雑な精神的な問題についての映画でもあった」とレベッカ。レベッカが外見から内面まで徹底してクリスティーンに成り切っているだけに、彼女の苦しみもダイレクトに伝わってくる。(編集部・市川遥)

第41回トロント国際映画祭は現地時間18日まで開催

そういや「【映画評】マーサ、あるいはマーシー・メイ」もドキュメンタリー調のえげつない映画でした。

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映画予告編



ウィキペディアが何者かより消されていたのでサルベージ。書いている内容の真贋は担保しませんので参考程度にどうぞ。

クリスティーン・チュバック - Wikipedia

クリスティーン・チュバック(Christine Chubbuck, 1944年8月24日 - 1974年7月15日)はテレビの生放送中に自殺したアメリカ合衆国のニュースキャスターである。

目次

1 生涯
1.1 鬱病
1.2 自殺直前
1.3 自殺
1.4 その後
2 関連項目

生涯

クリスティーン・チュバックはオハイオ州ハドソンに生まれ、シェーカー・ハイツ近郊のローレル女子校に通った。彼女はオハイオ州のマイアミ大学に1年通い、演劇芸術を専攻した。その後ビバリーのエンディコット大学に通った。1965年に彼女はボストン大学から放送に関する学位を授けられた。彼女は1966年から1967年までクリーブランドのWVIZに勤務し、1967年にはニューヨーク大学のサマー・ワークショップに通った。彼女はピッツバーグとオハイオ州カントンの公共放送でそれぞれ数ヶ月ずつ勤務した。それから、チュバックはサラソタの病院でコンピュータのオペレーターとして4年を、ケーブルテレビ会社で2年を過ごした。WXLT-TV(現在のWWSB)に入るその前には、フロリダ州セントピーターズバーグのWTOGにいた。

死の数年前、チュバックはフロリダ州シエスタ・キーにある家族のサマーコテージに移り住んだ。後にワシントン・ポストは彼女の絵が描かれたベッドルームと天蓋付きベッドはティーンエージャーのそれのようであったと報じている。彼女の両親の離婚後、母ペグと弟グレッグが移り住んできた。グレッグが離れた後、兄ティモシーが移り住んできた。彼女は母やグレッグを自らの親友であると表現するほどに家族と親しい関係を築いていた。

チュバックはサラソタ記念病院で障害児たちに対して人形劇を見せるボランティアを行っており、時折WXLT-TVのトークショーに手作りの人形を取り入れていた。

WXLT-TVのオーナー、ボブ・ネルソンはチュバックをレポーターとして雇った。しかし、後にPTLクラブの後に放送される地域の問題についてのトークショー、サンコースト・ダイジェストを任されるようになった。

チュバックはサラソタ・ブラデントンの地域の高官を招き、このビーチの地域の発展のために議論を交わすこの仕事を重要な仕事であると考えていた。


鬱病

チュバックは家族に対して、自分が鬱病を抱え、自殺癖を持っていることを詳細に語ったが、自分の確固たる決意について語ることはなかった。1970年に彼女はオーバードースによる自殺を図り、頻繁にそのことについて言及していた。彼女は精神科医の診察も受けていた。彼女の母親は彼女が解雇されるのを恐れて彼女の自殺癖をテレビ局の経営陣には伝えていなかった。

彼女が自分の協調性のなさを考慮することは、彼女の鬱病を悪化させることになった。彼女の母親は「彼女の自殺は単純に私生活が満たされていなかったことから来ているのでしょう」とまとめている。彼女は同僚に対し、自分が30歳の誕生日を迎えんとしていること、そして自分は2度男性とデートしたことがあるだけでいまだに処女であることを嘆いていた。後年、グレッグは彼女がサラソタに来る前に何度か男と出て行くことがあったと回想しているが、海浜のリゾート地で社会的にうまくやっていくことに問題があったことも認めている。彼は、彼女がデートの相手がいないことを自虐ネタにしていたことは彼女の鬱病を進行させる原因になったとしている。

彼女は死の前年手術によって右の卵巣を摘出しており、一年以内に妊娠しなければ子供を作ることができなくなってしまうのだと語っていた。このときはまだ彼女が多嚢胞性卵巣症候群に罹っていると疑うものはいなかった。

彼女は、同僚のジョージ・ピーター・ライアンに恋心を抱いていた。彼女は彼の誕生日にケーキを焼き、彼の好意を受けることを切望した。しかし、彼はすでにスポーツレポーターのアンドレア・カービィと関係していた。カービィは彼女の親友であったが、新しい仕事を見つけてボルチモアに移った。このことで彼女はさらに憂鬱になった。

チュバックに良き伴侶がいなかったことは彼女が自らの親友を必要としていたことに繋がったと考えられているが、同僚たちは自分たちがフレンドリーに接したときでも、彼女はいつも無愛想で受身だったとしている。彼女は自虐ネタにし、自分に対する賛辞を拒んでいた。彼女は言葉遊びや駄洒落を好んでいた。


自殺直前

自殺の数週間前、彼女はテレビ局のニュースディレクターに自殺に関するニュースを取り上げることを提案した。彼女の提案は認められ、地域の保安官に自殺の手段について取材に行った。インタビューの中で、保安官は最も効率的なやり方のひとつはワドカッターの38口径のリボルバーを使い、こめかみより頭の後ろを撃つことだと答えた。

一週間前、彼女は夜のニュース編集者であったロブ・スミスに、自分は銃を買っており、放送中に自殺するということを冗談として語った。スミスは後にワシントン・ポストの取材に対して、自分はそのとき彼女をたしなめたと語っている。

1974年7月12日、彼女はニュースディレクターのマイク・シモンズと口論をしていた。シモンズは彼女が取材した撃ち合いに関するニュースのひとつをカットしていた。


自殺

1974年7月15日の朝、チュバックはニュース原稿を彼女の番組サンコースト・ダイジェストで読み上げることを主張し、同僚たちを困惑させた。これは今まで例のないことであった。彼女がニュースアンカーのデスクに座っている間、トークショーのゲストはスタジオで待っていた。彼女のニュース原稿にはこの後に起こる彼女の自殺まで含まれていた。人形を入れているバッグに38口径のリボルバーを隠し、机の下に置いていた。

最初の8分間、チュバックは3本の全国ニュースのあと、地元のレストランで起こった発砲事件について伝えた。そのレストランは国道41号沿いのサラソタ・ブラデントン空港にあるビーフ・アンド・ボトル・レストランであった。その時、映像のリールが故障して動かなくなった。彼女は、それを受け流すようにして、視聴者に対して語りかけてきた。

最新の血と臓物を新鮮な色で皆さんにお届けするチャンネル40のポリシーのため、今から皆さんにお見せしますのは、初公開の - 自殺です。

そう言うと、彼女は拳銃を取り出し、右耳の後ろを撃ち抜いた。チュバックは前のめりに激しく倒れこみ、技術ディレクターが画面を暗くさせた。後年、カメラを操作していたジーン・リードは最初このことを手の込んだいたずらだと思っていたが、チュバックの体が痙攣するのを見て本当のことだと気付いたと回想している。

チュバックは、彼女が台本の中で予想したとおり、サラソタ記念病院に運ばれたが、14時間後に死亡が確認された。

WXLTはチュバックの番組の代わりにジェントル・ベンの再放送を放送した。

自殺を目撃した視聴者の中には警察に通報する者も、テレビ局にやらせかどうか問い合わせる者もいたという。


その後

チュバックは火葬された。葬儀はビーチで行われ、メキシコ湾に散骨された。この葬儀には約120人が参列した。

アメリカの3大ネットワークはすべて彼女の死を報じた。遠く日本の新聞でもこの事件が報道され、毎日新聞は当時のサンコースト・ダイジェストが血なまぐさい事件について取り上げることが増えていたことを引き合いに出して、彼女がそうした局の報道姿勢に対して命がけの抗議を行った可能性について言及している。

チュバックの家族は彼女の自殺を収めた2インチVTRの公開を防ぐためにWXLTに対して差止請求を行った。サラソタの保安官事務所はテープを証拠として押収し、後にチュバックの家族に彼女の遺品とともに返却した。当時ビデオ録画は極めてまれであり、このテープはおそらく事件の唯一の記録映像となっている。また、彼女の家族はこのテープを破棄したともいわれているが、真相は不明である。

2007年にグレッグはE!の特別番組に出演し、初めて公に姉について語った。


関連項目

ネットワーク - 彼女の自殺から2年後に製作された、最後の放送で自殺することを予告したニュースキャスターに関する映画
バド・ドワイヤー - 生中継されている記者会見中に自殺した

彼女の死に関するドキュメンタリービデオ



それでは問題の動画です。閲覧注意。

Christine Chubbuck "Suicide footage"; 1974 Re-upload (Warning Graphic) : Yoshi Killer2S : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

ChristineChristine


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Posted by kingcurtis 固定リンクComments(3)映画 | 動画
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コメント
英語版のwikipediaの項目から翻訳しただけみたいな、、、
Posted by 名無しさんはデマに苦しんでいます at 2017年02月20日 20:12
 ロングでピントがボケた白黒動画だからあまりショッキングで無かったが、もしこれがカラーだったら・・・
Posted by 名無しさんはデマに苦しんでいます at 2017年02月21日 20:45
こういう記事がトリガーになる
Posted by し at 2021年12月18日 06:56
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