2014年04月21日

【貧農史観】「花子とアン」放送開始記念 地球市民のバイブル「あゝ野麦峠」神話を恐れず果敢に挑戦する素敵な岐阜新聞

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女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)

「年寄り専用」だと思い込み永く拒絶していました。そんな私が生まれて初めて見た朝ドラが「あまちゃん」でして(杏はパスしましたが)、吉高マニアとして恐る恐る見始めた「花子とアン」も素晴らしい。

日本人離れしたブラックバーン校長、具志堅用高秘伝の右フックを仲間由紀恵から喰らったともさかりえ、人類史上発のババア役美代ちゃんなど、日夜、歪んだ性欲系の映画ばかり見続け心が汚れていますが、綾香の爽やかなテーマソング&善男善女が演じる清々しいドラマを見ていると自分も実は善人だったような、爽やかな男性に生まれ変わったような、まるで心が浄化されている様な錯覚がして実にお得です。
ダークサイドに蠢く吉高、高慢なエリカ様、ミニアグネスの紀香がそれぞれ逆の配役を演じる4月のドラマは実に面白い。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」




本題です。ドラマの中で貧農の次女黒木華さんが製糸工場へ女工として家を出る云々という流れになっていまして、戦後のサヨク思想により「あゝ野麦峠」「女工哀史」「一日18時間労働で全員結核死」と繰り返し刷り込まれ「野麦峠ロボトミー状態」である我々愚民に対し、野麦峠の元祖であられる岐阜新聞さんよりお叱りの声。

トンネルの向こう 限界からの地域再生「女工哀史に思いはせ」−岐阜新聞 Web

女工哀史に思いはせ 「交通要所」から「観光名所」へ

 「工女さんの格好ができて感無量だわー」。残雪が山肌を覆い、冬の様相を見せる岐阜、長野県境の野麦峠(1、672メートル)に女性の声が響いた。峠の冬期閉鎖を解除する「山開き祈願祭」が1日にあり、峠に集う観光客は明治から昭和初期にかけて信州へ糸引きの出稼ぎにこの峠を越えていった飛騨地域の若い娘たちに思いをはせていた。

 野麦峠は、乗鞍岳の南東。古くは江戸街道として飛騨と信州を結ぶ交通の要所だったが、車社会となってからは観光での往来が多い。登山道としての旧街道のほかに、車が通れる県道奈川野麦高根線がある。1970(昭和45)年に開通したこの県道は春先に除雪し、5月1日から11月中旬までの約半年間通行できる。

 観光の目当ては、乗鞍岳の絶景と亜高山帯の大自然、そして「女工哀史」だ。峠には飛騨地域の工女たちが通った旧街道をはじめ、工女の峠越えの歴史などを紹介する資料館「野麦峠の館」などがある。作家山本茂実さんの著書「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」が発刊された68年を契機に、この峠は観光地として有名になった。

 山開きは地元高山市高根町が主催し、ことし初めて工女たちに扮(ふん)する体験イベントが行われた。大垣市本今町の自営業岡田博志さん(66)と妻幸子さん(63)は、縞(しま)の着物に御高祖頭巾などの姿でタイムスリップ気分を味わった。「野麦峠に来るのはもう7、8回目。映画や小説で『かわいそうな話』として知っている。こんな姿で工女たちは雪道を歩いていたのね」と感慨深げ。

 埼玉県和光市の自営業塚田一男さん(69)も妻治子さん(70)と参加。「新潟生まれの母が工女で10年間糸引きをし、29歳の時に結核で他界した。今日は思いがけず工女ゆかりの衣装を着させてもらい、母のいい供養になった。感無量ですよ」

 「女工哀史」に代表されるように、つらく厳しかった面が強調されてきた糸引き工女の歴史に、人々は思いを寄せてきた。しかし、大勢の糸引きを輩出した飛騨地域では「糸引き」が「かわいそう」の代名詞ではない。糸引きだったことに胸を張る証言も、また多いのが事実だ。

工女ら仕事に誇り 稼いだお金、父は神棚に上げ拝み

 「これがわしじゃよ」。白黒の肖像写真に写った着物姿の娘たちの1人を、筋目が深く刻まれた指でさす。高山市高根町野麦の梨本八重さん(86)は、かつて野麦峠を歩いて越えて信州へ糸引きに行った、今では数少ない体験者。「この羽織はな、皆勤で働くと年の暮れにくれた銘仙(めいせん)の反物で作ったんじゃよ」と誇らしげに語る。

 梨本さんは1939(昭和14)年の14歳から3年間、叔母の口利きで長野県岡谷市の片倉製糸に姉と勤めた。山村の高根では、山仕事や農業が生業で現金収入が少なかった。梨本家では貴重な現金収入として、ワラビ粉作りをしていた。和傘や提灯(ちょうちん)を貼るのりとして重宝され、雨にぬれてもはがれにくいと評判で、中でも飛騨産は最高級品だった。梨本家では最上品をえりすぐり、岐阜市加納の和傘問屋へ納めていた。

 家族6人の暮らしのため、世間を学ぶため出稼ぎを決めた梨本さん。家から峠を越えて長野県松本市奈川寄合渡まで歩き、バスで松本電気鉄道島々駅へ向かい、鉄道に乗り換えて松本経由で岡谷へ。2日がかりで行った。

 峠を越えたのは年に4回。夏祭りと正月に家族と過ごすために帰った。34年に旧国鉄高山本線が全線開通後、飛騨の糸引きたちの交通手段も列車の利用が多くなり、当時は野麦峠を歩いて越える娘はほとんどいなかった。

 「着物の下にもんぺをはいて、足はわらじ。寒い時は襟巻きを頭からかぶった。父が寄合渡まで荷物を担いで送ってくれた」「冬場は輪かんじきを履いて父が雪を踏み踏み道を作ってくれて、わしだちはどぼんどぼんと足跡を踏んでった」「手をつないで急な崖を歩いたり、途中山賊に襲われないか怖かったよ」

 工場内では就業後、自由に学問や裁縫を学ぶ機会が設けられていた。食事は3食白米。正月前には新巻き鮭を1匹もらい、年越しに家族と珍しがって食べた。過酷で厳しかった面ばかりが強調される工女の生活だが、梨本さんの時代は恵まれていたようだ。

 「糸の検査は厳しかったけど、楽しかったさ」「稼いだお金を父に渡すと、喜んで神棚に上げて拝んでくれてな。ああーわしも家族の役に立てたと。父母に褒められることが一番うれしかったな」

 戦争の気配が色濃くなり、片倉製糸が閉鎖され、梨本さんも出稼ぎ先を変えた。18歳から2年間、岐阜市五坪町にあった大日本紡績岐阜絹糸工場で働いた。この時は、野麦方面から同世代の娘4人も一緒だった。約70年たった今でも5人は大の仲良し。山村に住んでいるとは思えないほど社交的だ。若い頃、初対面の工女らと暮らした経験がきっと今に生きているのだろう。

郷土愛し語り継ぐ 元女性記者、工女の歴史に いち早く光

 「あの峠の名もあなたさま方若い方には、ご存じないことでございましょう」。信州に糸引きに行った飛騨地域の老女のこの言葉で幕を閉じる短編記録文学「野麦峠」は、飛騨市古川町出身の郷土史研究家蒲幾美さん(92)=川崎市麻生区=が、1961(昭和36)年に発表した。

 糸引きの工女を描いた劇映画「あゝ野麦峠」は、作家山本茂実氏(1917〜1998年)の著書を原作に作られたが、蒲さんは 山本氏よりも5年前に野麦峠を越えた工女の歴史に光を当てた。

 蒲さんの「野麦峠」は、老女が糸引きの思い出を風習や民俗、飛騨弁を織り交ぜて一人語りする小説風の読み物。蒲さんは岐阜タイムス(現岐阜新聞)古川通信部で、当時は珍しかった女性記者をしていたこともある。子育てや家事をしながら、信州へ糸引きに行った古老たちから聞き取りをしてまとめた。

 地元紙や飛騨郷土学会誌「飛騨春秋」で発表後、68年に主婦の友社刊行の「明治という時代(10冊の本2)」(井上靖、臼井吉見編)に収録された。

 山本氏の妻和加子さんの著書「『あゝ野麦峠』と山本茂実」(角川学芸出版)や当時の新聞記事によると、山本氏が野麦峠の取材を初めてまとめた要約版「野麦峠を越えた明治百年」を文藝春秋で発表したのは66年。68年には長編「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」を書き上げ、これが一躍有名になった。

 「昭和30年代、私が野麦峠の話を聞こうとしても、断られたり逃げられたりした。当時新聞記者という職業は、山国では人のあら探しをする職業と思われていた。しかも女でしょ。何を考えているのかと。いろんな偏見を打ち払い、飛騨の歴史の語り部となるため取材を続けた」と、蒲さんは振り返る。

 明治時代、古川近辺では、一握りの地元有力者以外の娘たちは、ほとんどが信州へ糸引きの出稼ぎをした。新工(しんこ=新人の工女)の半年分の給料が、農家の一年分の稼ぎと一緒だったからだ。「『娘3人持てば蔵が建つ』『優良工女になれば嫁入り道具が一式そろう』とも言われ、若い娘の憧れでもあったんです」

 娘たちは近隣の山村から一度古川に集まり、隊列を組んで高山から朝日、高根を経て野麦峠へ向かった。蒲さんの実家は古川町の宿屋。娘との別れを惜しむ親たちが近隣山村から1泊して見送り、1年働いて帰ってくる時には娘の出迎えに泊まった。母は糸引き、父は見番として野麦峠を越え、いとこが糸引きに憧れたという蒲さん。「かわいそう」という女工哀史に抱く気持ちからではなく、同じ飛騨びととしての目線で描いた作品は、郷土への愛やぬくもりにあふれている。

女の道、今も共感 吉永小百合さんも越えた峠に人絶えず

 ♪野麦峠はダテには越さぬ 一つアー身のため親のためー 男軍人女は工女 糸をひくのも国のためー

 岐阜と長野の県境にある野麦峠(標高1、672メートル)は、かつて信州に糸引きに向かう飛騨の娘たちがそう歌い、励まし合って峠を越えたと伝え聞く。峠近くの高山市高根町野麦に立つお助け小屋も工女ゆかりの建物。「この建物は工女も泊まった野麦集落の民家で、観光用に移築して当時を再現したんです」と同小屋の近くに立つ「野麦峠の館」管理人堀野徹さん(66)=同町野麦=は説明する。

 厳しい峠越えで命を落とす人が多く、1841(天保12)年に人命救助のために建てられた。峠越えの歩いてしか通れない旧街道は地元でも忘れられた存在だったが、作家山本茂実氏の作品「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」が発表された1968(昭和43)年を機に一転観光地に。70年の車道開通に合わせ、飲食と宿泊ができる施設として今の小屋ができた。

 小屋が建つ前年の69年、女優吉永小百合さんが旧道を歩いて信州から飛騨へと峠を越えた。大きな試練に臆せず、峠を越えて行った飛騨の娘たちの物語に共鳴した吉永さんはこの年、芸能生活10年を記念し、野麦峠の映画を自主制作すると発表。原作は山本氏、監督は内田吐夢氏。映画と物語に対する思い入れは相当熱かった。

 「雨の中、神社で野宿しようとしていた女性2人を私の母が気の毒に思い、家で泊まってもらった。最後までその女性が、吉永さん本人だとは気付かなかったですよ」と奥原音蔵さん(78)=同町野麦=は振り返る。

 吉永さんは帽子にサングラス姿で素性を隠し、歩いて峠を越えて奥原家で1泊。翌日は奥原さんが出勤途中に高山駅まで送った。

 「翌日はいい天気で阿多野郷から乗鞍岳が見えて喜んでいた。ところが枕銭を包んだ紙に名前が書かれていてね、そこで初めて気が付いたんじゃよ」。後日、吉永さんは再度、奥原家を訪ね「あの時ご親切にしてもらったご恩は忘れません」とお礼を伝えたという。

 吉永さんの前に高山市を舞台に映画「遠い雲」(55年)を制作した映画監督木下恵介氏も、飛騨市古川町出身の郷土史研究家蒲幾美さん(92)=川崎市=の短編「野麦峠」を読んで61年に映画化を発表、野麦峠や蒲さん宅にも訪れた。残念ながら2人とも映画化の実現には至らず、吉永さんは旧街道の峠に物語の主役で飛騨市河合町出身の政井みねの石碑を建てた。そして79年、2人とは別に山本薩夫監督が大竹しのぶさんを主役に映画化を果たした。

 東日本大震災以降も野麦峠には訪れる人が絶えない。山本監督のロケ撮影では、炊き出しを手伝った堀野さんは言う。「震災後は人が減ると心配していたが、昨年より観光客が多い日もある。過酷な時代を乗り越えていった工女の、くじけずに前向きに生きたけなげな姿が震災後の今の時代と重なり、共感を呼ぶのかもしれません」

奉公先、競って奉納 「三寺まいり」特大和ろうそくで資金力誇示

 岐阜と長野の県境にある野麦峠(標高1672メートル)を越え、信州へ糸引きに出ていた飛騨の娘たちは、地元の伝統行事にも大きな影響を及ぼしている。飛騨市古川町で受け継がれている1月15日の「三寺まいり」は、300年以上続く親鸞の遺徳をしのぶ習わしだが、工女との関わりが深い。正月に信州から帰省した娘たちが着飾って参拝したことから、地元の男女の出会いの場となり「嫁を見立ての三寺まいり」と、地元の民謡にもうたわれている。

 この行事のシンボルが特大和ろうそくで、高さ約70センチ、直径約25センチ、重さ約13キロ。地元の職人が手作りし、町内にある三つの寺でともされる。「和ろうそくがあんに、でこぉなった理由も糸引きと関係があるんやさ」と観光ボランティア「夢ふるさと案内人」の鮎飛定男さん(75)=同町三之町=は、飛騨弁で語り掛ける。

 鮎飛さんによると、飛騨古川は飛騨北部地域の工女の集結地の一つで、送迎や工女募集の根拠地でもあった。娘が集まる三寺まいりは、各製糸工場が優れた工女を探す絶好の機会。今は奉賛会が奉納している特大和ろうそくを、当時は製糸工場が競って奉納。ここぞとばかりに会社名を貼り、資金力を誇示する広告塔の役割も果たしていた。

 「ある会社が大きめの和ろうそくを奉納すると、娘たちの目に留まり奉公先の候補になるやろ。すると他の会社が『うちも負けとれん』と。そんでどんどん、でこぉなってった」

 鮎飛さんの祖母つやさんは1885(明治18)年生まれで野麦峠を越えた工女。幼い頃から糸引きの楽しい思い出を聞いて育った鮎飛さんは、工女に対する世間のイメージが過酷な労働や哀史という暗いものだと知った。「ばあちゃんから聞いた話と随分違う」。鮎飛さんは60歳を機に、工女の歴史の語り部を始めた。

 「小たんすや針箱など、製糸工場から褒美でもらった家具を大事に使ってたんや」「嫁ぎ先でも2年間、しゅうとさまに頼まれて糸引きへ行った。田畑を手に入れるため収入面であてにされていた」。小中学生から観光客まで、呼ばれればどこででも話し、案内人数は4万人を超した。

 工女の歴史を通した地域学習を伝統にしている学校もある。野麦峠が校区の高山市立朝日小学校や映画「あゝ野麦峠」の主役で実在の人物・政井みねの故郷にある飛騨市立河合小学校は、シンコ(新入り工女)と同世代になる6年生が学ぶ。社会見学では、野麦峠や峠越えの旧街道を歩いたりして工女ゆかりの地を訪れる。

 朝日小の6年生を担当する荒川みち子教諭は言う。「少子化で今の時代は子どもが大事にされ、親が子どもを喜ばせる時代。でも工女たちは命懸けで親や家族を喜ばせようとしていた。そんな違いから自分を顧みる児童もいて驚く。同じ年頃の工女の発するメッセージだからこそ、子どももしっかり受け止めますよ」

柳ヶ瀬に再び人を 79年「あゝ野麦峠」上映に沸いた

岐阜新聞 Web


 東日本大震災の発生からわずか一週間余の3月19日、被災地への哀悼を表すようにひっそりとした岐阜市の繁華街・柳ヶ瀬で、1979(昭和54)年公開の映画「あゝ野麦峠」が32年ぶりに上映された。かつて、映画のまちとして知られた柳ヶ瀬で記録的ヒットを打ち立てた作品の再上映にチケットは完売。「魅力的なものがあれば、人は集まってくる」。静まるまちに生まれた一点のにぎわいは、柳ヶ瀬の再興を目指してもがく人たちに勇気を与えた。

 「野麦峠は上映日数も動員数も当時としては群を抜いていた。思い出深い作品を見に、これほどの人が来てくれるとは」。公開時、柳ヶ瀬に点在した映画館の一つで「あゝ野麦峠」を上映した「岐阜東宝」の当時の支配人八代嘉吉さん(73)=本巣郡北方町=は感慨を込める。高山市高根町から長野県境の野麦峠を越え、製糸工場へ出稼ぎに行く女性らの悲哀を描いた作品は、6週間という全国一のロングランを記録した。「岐阜市付近にもカイコを飼って生糸を紡ぐ家がたくさんあり、繊維会社へ勤める人も多かった。地域の歴史を描いたというだけでなく、そういう女性たちの共感を呼んだのでは」と語る。

 繊維業を地場産業とする岐阜市には戦後、大規模な紡績工場や縫製所が集積し、県内外から数多くの従業員を受け入れた。高根町のような山間部から出稼ぎに来た若者も多い。梨本八重さん(86)=同町野麦=もその一人。「18歳から2年間、岐阜市五坪町の紡績工場へ行った。休みの日には同じ部屋の工女たちと柳ヶ瀬に行ったの。映画館にも行った。にぎわしかったよ」。職を求めて岐阜市に集まった多くの人たちが、柳ヶ瀬のにぎわいを支えていた。

 「今は待っていても人が来る時代ではない。自分たちで柳ヶ瀬の魅力を再発見し、発信しなければ」。岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会理事長の市川博一さん(55)は声を強める。

 高度成長の終えん、製造部門の海外移転などを背景に、岐阜市の繊維関連工場は次々に姿を消した。今、多くの紡績工場跡地に立つのは大型商業施設。柳ヶ瀬をはじめとする中心市街地は、それら大型店を競合相手に勢いを失っている。

 危機感の下、柳ヶ瀬が“待ち”の姿勢から“攻め”へと大きく転換したのが昨年度。来年度の柳ヶ瀬誕生123年に向け、寄席、ジャズコンサートなどの催しを立て続けに行い、魅力づくりに力を注ぐ。全国のゆるキャラを集めた昨年末のイベントは、通りを埋め尽くす人出となった。

 さらに、集客エリアの拡大に向け、外部とのつながりを重視。非公式キャラクター「やなな」がPRに全国を駆け回るほか、隔週土曜日の露店市「柳ぶら楽市」には、県内外の特色ある店が軒を連ねる。出店者集めに奔走した同連合会事業委員長の松田多賜郎さん(66)は「すでに固定客を持つ店もある。外部からの刺激を受けて、柳ヶ瀬全体が活性化すれば」と願う。

 市川さんは「さまざまな層に響く企画を打ちながら、うまく外へPRすることが大切。高山市とつながる野麦峠のイベントはまさにその一つ」という。催事の集客には少しずつ手応えも感じている。「柳ヶ瀬に来れば何かある、今日は何があるか楽しみだな、そんな思いで内外から人が集まる憩いの場としての商店街にしたい」

=第4章おわり=

元より村岡花子さんの時代、華やかな帝都の女学生が知らぬ地の果てで、学校へも通えず奉公だ女工だと今の北朝鮮人民のように馬車馬のごとく働かされた貧村の小作人。イザベラ・バード「日本奥地紀行」にも、日本の農村部の不衛生さを嘆く記述があった筈。

そして村岡花子さんと同じ時代、李朝による過酷な身分差別に沈み飢餓に喘ぎ屍肉を喰らい土や草を食べていた朝鮮半島の農民がどうやって糊口を凌いだのか?あとはご自身でお調べ下さい。
李朝朝鮮の農民 - Google 検索
試験に出る朝日新聞によると、日帝は連合軍相手劣勢の戦局で、なぜか非戦闘地域の半島へ陸軍の精鋭部隊を送り込み、痩せた土地より農婦20万人集団拉致し強姦。慰安婦として補給路も途絶えた戦場最前線に送り込んだそうです。試験に出るかも。

最後に、「The Water Is Wide」といえばカーラ・ボノフ。
この曲の歌詞を暗記すれば、あなたも朝ドラの子役デビュー出来るかも?



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コメント
花子以外の兄弟姉妹はみな奉公に出たんですよね。この人が出会う面子は凄い人ばかり。日本人は戦後も親を助けるために働きました。

ところで〈はるな〉は入れなかったのね。
Posted by (・ω・)♪ at 2014年04月21日 21:31
台詞回しやストーリー展開が、
「赤毛のアン」を意識し過ぎてて…
赤毛のアンごっこでしかないというか。
じゃあ素直に赤毛のアンやればよかったんじゃないか、と。

一方BSでは、高畑版赤毛のアンがこっそり放送中。
聞こえるかしら、蹄の音〜。
Posted by んんー at 2014年04月21日 22:30
>自分も実は善人だったような、爽やかな男性に生まれ変わったような、まるで心が浄化されている様な錯覚がして

ご自身のことをよく分かっていらっしゃるw
ええ、そうです、錯覚なんですw

それから先々週から放映されている「MOZU」も割と面白いですよ。
Posted by おめめ at 2014年04月21日 22:49
小倉井筒屋やろ?
真木よう子のジョギングしながら揺れるおっぱい鑑賞して、一話で脱落。
Posted by bob at 2014年04月21日 23:06
 29歳でオカンが死んだって言うけれど、明治期の女性の寿命って、出産時の事故が多かったのと、栄養状態が悪くて産後の肥立ちが良くなくて死んだりするから、特別に長生きした方を除くと27歳前後だったんだが・・・また戦後抗生物質が入ってくるまで、結核は「フツーに死ぬ病気」だし。このドラマの難しいところは、キリスト教徒だったところと社会運動家ってのを悪気無く描こうとしているところかなぁ・・・
Posted by 漁師 at 2014年04月22日 01:06
松本ICで高速を降りてR158を上高地方面に向かうと、梓湖で野麦峠方面に分かれるYの字に分岐する所がある。

何年も行ってないけど以前のままだと思うが、GoogleMAPで見るとわかる結構ドキドキするトンネル。
高山、奥飛騨、上高地、白骨温泉があるので交通量があるけど基本的に昔の狭く感じる道路。

大型のバスやトラックは問題無く通ってるが、このポイントはトンネルで狭く曲がったブラインドのカーブ、湧き水がヘッドライトの光が吸収し路肩が確認しにくいとこにイキナリ現れるトンネル内での分岐に(信号機もあったと思う)結構ビビった記憶が。

その先は標高高いから小排気量は辛いけど峠小僧には楽園。
Posted by 40男 at 2014年04月22日 02:10
>特別に長生きした方を除くと27歳前後
流石にそれ無理ありすぎwww(地獄のシエラレオネですら46歳)

『あゝ野麦峠』なり『女工哀史』なりは滅茶苦茶、とは故赤松啓介氏から直接聞いた話(民俗学の巨頭。柳田国男がやらない差別とセックスをわざと集中的に研究)。
「第一、娘さん苛めて作業効率あがりまっか?」との弁。実際は、女工を各班に分け、二枚目を各班主任にし、競わせる方法。田舎から出たばかりの女工たちは自分の主任に恋愛感情をいだき、「私の主任さん」の為に必死に働いた。自主的に。
 田舎のうぶな娘の娘心を利用しているわけで、こっちの方があくどいとも言えるが、「女工哀史」は嘘。フィールドワークの鬼が言ったんだから間違いなし。
(因みに赤松氏は元共産党員。後除名された)
Posted by 名無しのクネクネ at 2014年04月22日 07:22
野麦峠、昔車で行ったときは思ったよりこじんまりしたところというイメージでした。グッドエントリーです。カーラ・ボノフも良かったです。リンダ・ロンスタットがカバーしてヒットしたトラブル・アゲインの作曲者という印象が強い人でしたが歌手としても上質な西海岸サウンドを体現した、なんとも良い味を出す歌姫ですね。
Posted by Liberty Hills at 2014年04月22日 08:05
o waly waly
悲しみの水辺、スコットランド民謡ですね。
カーラ・ボノフは何かのアルバムをカセットテープに入れてもらったを聞いてたね。
Posted by greensleeves at 2014年04月22日 09:19
> o waly waly
> 悲しみの水辺、スコットランド民謡ですね。
> カーラ・ボノフは何かのアルバムをカセットテープに入れてもらったを聞いてたね。

「greensleeves」といえばジェフ・ベックとかね。
Posted by bob at 2014年04月22日 09:42
富岡製糸場は国策の模範工場で、女工さんはいずれ全国の工場へ技術指導にいくことも予定されていた金の卵。
なんであげな話になってもうたんかのう?
Posted by 名無しのクネクネ at 2014年04月22日 12:00
>特別に長生きした方を除くと27歳前後
流石にそれ無理ありすぎwww(地獄のシエラレオネですら46歳)

 シエラレオネは現代だから、医薬品は不足していても、医学そのものは発展しているから明治期より状況がいいよ。また全然足らないなりにも援助は受けているんだし。明治期の日本女性の平均寿命は、特別に長生きした人を入れれば、もう少し高くなるけれど、当時の政府の言う44歳前後という数字は、。今の日本のように、平均寿命が80歳前後で、フツーに身の回りでも亡くなるのが平均寿命前後なのと中身が違うって話し。いわゆる「統計のマジック」。平均貯蓄額の分布に似ているかな。
Posted by 漁師 at 2014年04月22日 12:08
greensleevesが収録されているTruthは生まれる前((笑)で知らなかったが聴いてみたらよかった。英国風ブルースといいますか。80年代になってからベストヒットUSAなどで聞いたかな、コラボもあったかな。ヘビメタやロック好きな人がクラッシックなんか意外と詳しくて驚いたことがある。
Posted by なかいど at 2014年04月22日 19:28
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