2018年06月06日

【万引き家族】是枝裕和監督 韓国紙報道禍に言及「『日本はアジアへ謝罪せよ』『アベ政権は我々から多くの希望を奪った』など言っていない。正直驚いた」

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


 

万引き家族【映画小説化作品】
万引き家族【映画小説化作品】

こちらの続き。
【2018 カンヌ映画祭】パルムドール受賞した是枝裕和監督 作品と関係ない韓国紙「反アベ発言」で大論争
【映画評】万引き家族

非常に安堵しました。とはいえ、こういう話は独り歩きするからなぁ。
当ブログ的には日経の「日本はアジアの孤児になる」記事が非常に引っ掛かります。それ(中国政府の過度な映画検閲制度と、それに矛盾する是枝監督の中国政府礼賛発言)については今回言及なし。
【映画検閲地獄】中国共産党の歓心を買う是枝裕和「日本は中国と違い映画を文化として捉える素地に欠ける」「日本はアジアの孤児になる」

以下、捏造と名指しされた記事の再掲及び監督コメントを挟んでみました。(適時改行)
元ソースはこちら。是非拡散してください。
2018年6月5日 「invisible」という言葉を巡って | MESSAGE | KORE-EDA.com

血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが… | Joongang Ilbo | 中央日報

「初めて来た時は30代だったのに、いつの間にか50代になりました。カンヌに来るたびに今でもワクワクします」

第71回カンヌ映画祭が中盤に差し掛かった15日(現地時間)、現地のホテルで会った是枝裕和監督(56)の言葉だ。2001年映画『DISTANCE』でカンヌを初めて訪れた次世代監督はいつのまにか日本を代表する巨匠になった。パルム・ドール賞候補であるカンヌ映画祭コンペティション部門への正式出品は今回だけで5度目になる。

新作『万引き家族』は、この日まで公開されたコンペティション部門11本(全体21本)の中で最高の評価を受けている。英字メディア「Screen Daily(スクリーンデイリー)」の星取表(jury grid)では平均3.2点(4点満点)をつけ、フランスのジャン・リュック・ゴダール(3点)や中国のジャ・ジャンクー(2.9点)らを抜いている。また、別のメディア「Variety(バラエティー)」は「さらに成熟し、心を盗む家族映画復帰作」と好評した。公式上映では8分余りのスタンディングオベーションとともに涙を拭う観客も多く見られた。

映画は、初枝(樹木希林扮)の年金と万引きで生計を立てている家族が、寒さに震えていた幼い少女(佐々木みゆ扮)を家に連れてきたことから始まる物語を描いている。今にも崩れそうな狭い家で築いた仲睦まじい彼らの日常に突然の危機が襲う。是枝監督は、5年前のカンヌ国際映画祭審査員賞作『そして父になる』(2013年)で投げかけた問いをもう一度取り上げた。家族を家族たらしめているのは血か、一緒に送った時間か−−。ここに共同体が崩壊した日本社会の現実を重ねた。

−−物語の着眼となった契機は。

「数年前に、日本では亡くなった親の年金を受け取るために死亡届を出さない詐欺事件が社会的に大きな怒りを買った。はるかに深刻な犯罪も多いのに、人々はなぜこのような軽犯罪にそこまで怒ったのか、深く考えることになった」

−−血の混ざらない家族について描いている。

「日本では今も家族は『血縁』というイメージが固定化されている。特に、2011年大地震以降、このような家族の絆を大げさに強調する雰囲気について疑問を感じていた。国際的な状況もある。カンヌで会った多くの人々が、私に『私は里子なんだ』『私には養子がいる』と打ち明ける」

−−主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

−−経済不況が日本をどのように変えたか。

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

−−前作と同じく、父子関係が印象的だ。

「映画で少年の祥太(城桧吏扮)は父(リリー・フランキー扮)と呼んでいた人がそれほど信じられないことに気づく。私の父は典型的な会社員だったが、私にも似たような感情があった。親に対する確固たる印象が崩れる瞬間、大人になるのだということを言いたかった」

−−本当の家族とは。

「決まった答えも定義もない。だが、この映画に関していうなら、永遠に一緒にいられなくても、共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること、それ自体が家族なのではないかと思う」

−−次の映画はフランス女優ジュリエット・ビノシュやカトリーヌ・ドヌーブと撮影すると聞いた。

「まだ公式発表前の『うわさ』だ(笑)。韓国にも一緒に映画を撮ってみたい俳優がいて、韓国やフランスの中でさまざまな可能性をめぐり悩んでいる」

今年のカンヌ映画祭は19日まで続く。コンペティション部門受賞作は同日閉幕式で発表される。

14日でフランスの取材を終え、15日と16日がインターナショナルの取材に当てられた。この2日間は英語の通訳に入ってもらい、朝10時から18時まで恐らく150人を超える記者の取材を受けた。こちらの通訳の方も大変優秀。ただ、話す時に身ぶり手ぶりが加わって何となく僕の言葉が少し(監督らしく)盛られて伝わっている印象を持った。ふたりの間にもうひとり、目には見えない監督がいる感じである。やや、こそばゆい。取材に来る各国の記者たちも基本英語で質問する。1対1ではない。いわゆる8人程度の囲みというやつで、グループに与えられた30〜40分の間、記者が挙手をして自分の聞きたいことを思い思いに“英語”で質問するのだ。この囲み取材、答えるのが本当に難しい。なぜならそこに1対1の対話から生まれる“流れ”とか“深まり”とか、つまりは答えから次の質問が生まれて掛け合いになっていくダイナミズムが生じにくいからである。記者たちも別の記者が質問し、僕がそれに答えている質疑を含め、あたかも自分が全て聞いたかのようにひとつのインタビューとしてまとめるのが通常の形である。ここでは当然記者の力量が問われるし、力の差(語学力だけではなく)が露わになる。

 さて。今回、この囲みに少なくとも2人の韓国の記者がいた。何でわかったかというと2紙とも日本語版というのがあってネットに流れて来たからである。そのうちのひとつの記事は「血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…」という見出しだった。「血が混ざって」という表現が一瞬理解出来なかったのだが、「あぁ『血縁』のことだな」とすぐに合点がいった。確かに「血ではないものでつながった家族を描いてみたかった」という趣旨の話はしたからだ。ただしかし、この僕の「血縁」という日本語が→英語になり→それを聞いた記者(もちろん英語が母国語ではない)が韓国語に訳し→それがもう一度日本語になる。という伝言ゲームのようなプロセスを繞ると、これだけニュアンスが変わるのだということに改めて驚かされた。読み進めていくとこの記事の中には他にもいくつか首を傾げざるを得ない表現が散見された。例えば、僕は自分が描く対象を「代表的な例だ」とは決して言わない。言葉の解釈の幅は様々あるだろうが単純に自分が使わない言葉が文脈上にある場合は日本の取材でも直せれば直すのだが、今回はそうもいかない。

 この取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。

 このインタビューではドイツの戦後補償の話を僕が突然したような流れになっているが、これは共同体の話のつながりでEUの話になり、その流れで、ドイツがEUの中で占めている立場、果たそうとしている役割を日本が「東アジア共同体」の中で果たそうと思った時には、やはり過去の歴史ときちんと向き合って「清算」しないといけないのではないか、という説明を加えた。「謝罪」という単話は明らかにその翻訳のプロセスで後から加わったものだろうと思う。「補償」というのが僕の口にした言葉の何の翻訳なのかは、正直良くわからない。民主主義が成熟していく為には、僕は定期的な政権交代が必要だと考える人間のひとりである。何故なら権力は必ず腐敗するからである。それは映画監督という「権力」を手にして痛感していることでもある。目くそと鼻くそでも、交代させながら主権者である私たちが権力をコントロールしていくことによって民主主義は少しずつ熟度を増していくだろうと思っている。その政府が保守だろうがリベラルだろうが政権が変わらないと思ったら皆がその権力を忖度し、志のないジャーナリズムはチェックを忘れ広報化する。それは主権者にとっては不幸だという話をした。まぁこれは余談の部類。そのような説明が短くまとめられた時に色々省略されて (安倍政権が続いて私たちは不幸になった)というやけに単純化されたものになっていた。正直驚いた。

『万引き家族』是枝監督、壊れた家族にこだわる理由とは-Chosun online 朝鮮日報

 喝采はなかなか鎮まらなかった。5月14日(現地時間)、フランスのカンヌ国際映画祭で初めて公式上映された是枝裕和監督(55)の映画『万引き家族』がエンディングを迎えると、観客は一斉に立ち上がった。この日のスタンディングオベーションは、ことのほか熱く、そして長かった。

 5月16日現在、カンヌの「スクリーン・デイリー」が付与した『万引き家族』の評点は4点満点で3.2。これまでに上映された作品のうちトップだ。「フィルム・フランセーズ」は評点2.92を付け、こちらではロシア映画『Leto』に次いで2位となった。有力な「黄金の棕櫚(パルムドール)」候補というわけだ。今年のカンヌ映画祭コンペティション部門は21作品で争われ、この時点で13作品が公開された。

 タイトルの『万引き家族』とは、「万引きをする家族」でもあり、「万引きするかのように手に入れた家族」でもある。万引きで生計を立ててきた5人の家族は偶然、寒さに震える5歳の少女に会い、家に連れてきた。同居していた祖母が亡くなると、家族は年金をもらい続けるため、祖母の死を隠した。5月15日に現地で行われた記者懇談会で、是枝監督は「ニュースで報じられた事件を基にした作品」と語った。このところ日本で社会問題として浮き彫りになっていた年金不正受給もその一つ。是枝監督は「二極化が深刻になり、社会のセーフティーネットは崩れている。その中で家族の生存とはどういうものか、描いてみたかった」と語った。

 2004年の『誰も知らない』で、親に捨てられ書類上は存在すらしなくなった4人きょうだいの物語を描いた是枝監督。『歩いても、歩いても』(2008)、『そして父になる』(2013)、『海よりもまだ深く』(2016)と、是枝監督は常にポケットの中の画鋲のように何気なく、鋭く人を突いて泣かせる家族映画を制作してきた。「なぜそれほど、亀裂の入った家族にこだわるのか」と質問された是枝監督は、ゆっくりと答えた。「私たちはみんな、そういう家族の中で生まれ、育ってきた。その家族がまた別の家族を生む。映画が絶望と痛みという井戸から汲み上げられるものならば、私はその井戸を家族に求めている」

 ほかの作品がそうであるように、『万引き家族』は重いテーマを取り扱いながらも、午後の日差しのように柔らかい。家族が集まって食事をするシーンや、雨の日に床に座って雨の音を聞いているシーンがそうだ。是枝監督は「私たちには美しさが必要」と語った。「父と息子が釣り竿を盗むシーンも、ニュースを基にした。ある万引き家族が捕まったとき、盗んだ物の中に釣り竿があった。その家族の趣味が釣りだった。その話を聞いて、悲しいが美しいと思った。私たちの暮らしもそうだ。壊れて傷んでも、その中にはしばしば美しい瞬間がある。私はそれをすくい上げたかった」

ソン・ヘジン記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

 この記事の翌日に実はもうひとつ韓国紙の記事が出た。多分同じ日の別グループだったと思う。こちらの見出しは「壊れた家族にこだわる理由とは」というもの。「壊れた」という言葉のオリジナルは恐らく「欠損」だろうと思う。これはそれ程遠くはない。記事を読み進めていくと、これは納得の翻訳と構成でとても囲み取材をまとめたとは思えないクオリティーだった。何より印象に残ったのは「映画が絶望と痛みという井戸から汲み上げられるものならば、私はその井戸を家族に求めている」という一文。素晴らしく文学的な表現なのだが実は僕は全くこんなことは話していない。家族を井戸に例えるというような比喩がそもそも僕の中に教養としてもボキャブラリーとしても残念ながら存在していない。この表現が、通訳をしてくれた方のものなのか、記者自身のものなのかはよく分からない。が…こっちも正直驚いた。こうして韓国紙を巡る「齟齬」について書くと、一部のネットの人たちが「ほらみろ!」と騒ぐかもしれないけれど、たまたま日本語版が出ていたから目にしてわかっただけの話で、このくらいのロストイントランスレーションは至るところで起きていると思ったほうがいいのだ。ネットで切り取られた言葉が拡散されていくプロセスで生じる齟齬(意図的なのかどうかわからないが)のほうがよっぽど酷いという実感を持っている。例えばこの韓国紙に掲載された僕のインタビューが「授賞式で日本批判のスピーチをした」ことに変質するまで一週間もかからなかった。その数日後には「受賞スピーチでも日本は南京虐殺について中国に謝れ」と発言したことになっている。動画だってあちこちにアップされているのだからチェックすればいいのにと思うが、どうやらそういうメディアではないらしい。だとしたら、こんな誤読をいちいち否定して回っていてもキリがない。まあ忙しくて対応出来なかったというのが正直なところだけれど。

本件に関するネットでの大騒動について。

 正直な話、ネットで『万引き家族』に関して作品を巡ってではなく飛び交っている言葉の多くは本質からはかなり遠いと思いながら、やはりこの作品と監督である僕を現政権(とそれを支持している人々)の提示している価値観との距離で否定しようとしたり、逆に擁護しようとしたりする状況というのは、映画だけでなく、この国を覆っている「何か」を可視化するのには多少なりとも役立ったのではないかと皮肉ではなく思っている。1本の映画がそんな役割を社会に対して果たせるなんて滅多にないことですから。既存のテレビメディアには映画をワイドショーのネタとして扱う枠しかほとんど残っていない今の状況に比べると(もちろんワイドショーのネタになったり、新聞の文化面でなく社会面で取り上げて頂くことは、映画が人目に触れる大きなチャンスであることは疑いようがないが)、自分から情報を拾いにいく覚悟さえあれば、新聞の映画評以上に長文の充実した考察に出会える可能性もあるわけであるからもう少しこのネットの空間、言説には興味深く注視してみようかという気持ちになっている。

 もしも、この韓国の2人の記者に再び会うチャンスがあった時に僕は一体どのような対応をとるのか?ひとりには翻訳による誤解を正し、次のインタビューの時にはいい翻訳家に頼むか、英語を介さず韓国語と日本語だけで質疑が済むようにお願いすること。そしてもうひとりには「井戸」ってあなたが考えたことなの?とても素晴らしいから僕自身の表現として使っていい?と逆に提案すること。この2つである。

政治発言について。

 映画監督なのだから政治的な発言や行動は慎んで作品だけ作れというような提言?もネット上でいくつか頂いた。僕も映画を作り始めた当初はそう考えていた。95年に初めて参加したベネチア映画祭の授賞式でのこと。ある活動家らしき人物がいきなり壇上に上がり、フランスの核実験反対の横断幕を掲げた。会場にいた大半の映画人は、立ち上がり拍手を送った。正直僕はどうしたらいいのか…戸惑った。立つのか立たないのか。拍手かブーイングが。この祭りの空間をそのような「不純な」場にしてもいいのか?と。しかし、23年の間に気付いたことは、映画を撮ること、映画祭に参加すること自体が既に政治的な行為であるということだ。自分だけが安全地帯にいてニュートラルであり得るなどというのは甘えた誤解で不可能であるということだった。

「日本スゴイ」「日本酷い」について。

 僕は何かを誉めそやしたり批判することを目的に映画を作ったことはない。そもそもそんなものはプロパガンダに過ぎない。外国人観光客を日本に誘う為のインバウンド効果を競うわけではないので、「日本すごい」をアピールすることを目的にしたものなど、そもそも映画とは認められないし、逆に社会や政治状況の「酷さ」だけを晒そうと目論んだものは「貧困ポルノ」という言葉でやはり批判をまぬがれない。映画祭とはそういう場所である。

イラン・ロシア両監督拘禁への無視姿勢報道について。

 僕はこの場で感じる「希望」と「勇気」について触れたあと、その2つを分かち合いたい対象として2人の監督を挙げた。作品がコンペに選ばれながらもこの映画祭に参加できなかったキリル・セレブレンニコフとジャファール・パナヒである。
 しかし、具体的な名前を口にはしなかったので、(それ以前の受賞者のスピーチで充分名前は伝わっていると考えた)ある日本の新聞には僕がここで触れた2人の監督は、イ・チャンドンとジャ・ジャンクーのことだと誤読した記事も出た。授賞式直後、日本のメディアの囲み取材で僕が同世代の尊敬するアジアの監督として彼ら2人の名を挙げたからだ。2人がいるから、自分も映画と真摯に向き合えるのだ、と僕は話した。彼ら2人も今回は式の会場にはいなかったから、余計誤解が生じたのだろう。恐らくその記者が授賞式の様子を見ていたのは僕らがいたリュミエール会場ではなく隣接する別の会場だったはずだから仏語の充分な翻訳もかなわなかったはずである。
 齟齬とはこのように対面ではない環境の中でより多く起きるのだと思う。しかし、映画祭のように様々な言語が飛び交う場ではある程度の行き違いは許容していかないといけない。 “鈍感力”が必要になるのである。もちろんその齟齬は少ないに越したことはないわけであるから映画に付ける字幕翻訳のニュアンスの精査と現地での通訳は可能な限り優秀な人にお願いすることにしている。

万引き家族【映画ノベライズ】万引き家族【映画ノベライズ】
是枝 裕和

宝島社 2018-05-28
売り上げランキング : 213

Amazonで詳しく見る
by G-Tools









コメント
年金詐欺は「軽犯罪」じゃないってのに、なんにもわかってないなファンタジー是枝は。バカだからこそ良い作品ができるというアイロニーを感じる(一作も見てないので、良い作品ってのはあくまでも世間的な判断で)。
作品が話題になったことに乗じて政治的アピールする是枝は下品すぎる。

いずれにせよ、映画作品を現実と混同しちゃいかんのは、基本中の基本。リテラシーの問題。
Posted by 名無しのぱよぱよちーん at 2018年06月06日 12:40
言った言わないの話になっちゃうけど、嘘記事なら抗議して撤回させるべきだろう。
そうしないのは、なにかしらの損得勘定があるか、自分でもはっきりしないからなんだろうね。
Posted by 名無しのぱよぱよちーん at 2018年06月06日 12:45
山田洋次と同じで、作品はまあまあ面白いんですけどねえ。
妻よ薔薇のように 家族はつらいよIIIは面白かったです。
Posted by worldwalker's weblog(・∀・)! at 2018年06月06日 20:50
死んだ親の年金不正受給より、生活保護費の不正受給の方が圧倒的に多いだろ。まだ年金は掛け金を掛けてるし、何より既に貰っている方々の掛け金は、バブル期に増額しているから権利主張もある程度は理解出来る。が、生保は、そもそも掛け金を掛けてないから年金欠格者となって受給てパターンが多い。年金受給年齢前の労働者層での生保受給者だと、生活費が足らないのではなく、「贅沢する金が足らない」て場合が実に多い。結局、支出が我慢出来ない馬鹿が貰っているのが生保。騙されたと思って一度家に行ってみろ、モノであふれているし、働いている俺でも持ってないようなヴィトンの財布使ってるから。さすがにロレックスは見ないけれど
Posted by 名無しのぱよぱよちーん at 2018年06月07日 08:00
> ドイツがEUの中で占めている立場
そりゃ正統政府だったバシー政権を「傀儡だ」と戦勝国にロンダリングしたフランスなんか、後ろ暗いからねぇ・・・ユダヤ人の虐殺も組織的に殺したのは、ドイツ以外(敗戦間際の食糧難の餓死や病気は悲惨だと思うが)だから、ユダヤ人の虐殺も突っ込みにくい。そして今度は難民問題。EUでは「移民を受け入れる」が加盟の条件。で、最終的には「受け入れ国が責任を取る」。そうなると必然的に、フランス、スペイン、イタリアが受け入れ国で仕事が出来るうちはドイツ暮らし、働けなくなると受け入れ国に戻される・・・ドイツ戦争しないで第三帝国完成させた
Posted by 名無しのぱよぱよちーん at 2018年06月08日 07:40
>だとしたら、こんな誤読をいちいち否定して回っていてもキリがない。

今後も言った言わないの話が出てきそうな予感。いや、ちゃんと否定して回れよと思う。
Posted by 名無しのぱよぱよちーん at 2018年06月08日 17:26
  ※ コメント認証制です。URL記述不可。久保田直己さんの名誉を毀損したり誹謗中傷する書き込みは固くお断りします。
※ 全角換算400文字超を入力するとコメント飛びます。要分割投稿。