2016年01月13日

【映画評】フランス組曲

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フランス組曲
フランス組曲

相変わらず掴みどころがないミッシェル・ウィリアムズによるNTR映画でして、劇場で観るのはマリリン以来。
最後はマレーナの様に「売女」「坊主」かと決めつけていましたが、そういうオチではありません。

映画『フランス組曲』公式サイト


イントロダクション
アウシュヴィッツに散った作家が命を懸けて綴った執念の遺作が70年の時を経てついに映画化。
原作者イレーヌ・ネミロフスキーが人気小説家として活躍中に、第二次大戦が勃発。彼女はユダヤ人だったため1942年にアウシュヴィッツに送られ、1ヶ月後に亡くなった。続いて夫も捕えられ、同じ運命を辿る。残された娘2人は逃亡の間も母の形見のトランクを大切に保管したが、そこに入っているノートを母の日記であると思い込み、辛い思い出に向き合うことを恐れ、読まないまま長い年月を過ごした。それが小説であることに気づいたときには、作者の死後、60年以上がたっていた。疎開生活中に、小さな手書きの文字で綴られた「フランス組曲」は、2004年に出版されるや大反響を巻き起こし、全世界350万部を超えるベストセラーになる。
作者が命を懸けて綴った執念の遺作が、長い時間を経て、ついに映画として蘇ったのだ。
監督は、アカデミー賞受賞作品『ある公爵夫人の生涯』のソウル・ディブ。出演には『マリリン 7日間の恋』のミシェル・ウィリアムズ、『君と歩く世界』のマティアス・スーナールツら実力派を迎え、深く見応えある人間ドラマを誕生させた。

ストーリー
夫の帰還を待つフランス人女性とかつて作曲家として活躍したドイツ軍中尉の禁断の愛
1940年6月。ドイツ軍の爆撃にさらされ、パリは無防備都市となった。フランス中部の町ビュシーにパリからの避難民が到着した頃、独仏休戦協定が結ばれ、フランスはドイツの支配下に置かれる。結婚して3年、戦地に行った夫を待つリュシルは、厳格な義母と大きな屋敷で窮屈な生活を送っていた。その屋敷に、ドイツ軍の中尉ブルーノが滞在することになる。心すさむ占領下の生活で、ピアノと音楽への愛を共有する2人は、いつしか互いの存在だけが心のよりどころになっていく。それは同時に、狭い世界に生きる従順な女性だったリュシルが、より広い世界へと目を向ける転機にもなっていくのだった。

原作について
イレーヌ・ネミロフスキー Irene Nemirovsky(1903-1942)
1903年キエフ生まれ。ロシア革命後に一家でフランスに移住したユダヤ人。1929年、長編第1作「ダヴィッド・ゴルデル」(30年にジュリアン・デュヴィヴィエ監督により映画化『ゴルダー』)で、一躍人気作家に。第二次大戦が勃発すると、夫と娘2人とともにブルゴーニュ地方の田舎町イシー=レヴェックに避難、やがてフランス憲兵によって捕えられ、1942年アウシュヴィッツで死去。娘が形見として保管していた遺稿が60年以上の時を経て「フランス組曲」として出版されるや、たちまち話題を集め世界で350万部を超える大ベストセラーとなった。

小説「フランス組曲」は、階級主義のはびこるフランスでドイツ軍による占領下に生きる人々の振る舞いを、作者自身も生命の危機に犯されながら驚愕すべき平静な目線で描いたものだ。「1952年の読者も2052年の読者も同じように引きつけることのできる出来事や争点を、なるだけふんだんに盛り込まないといけない」。小説の執筆と同時期に綴られた創作メモの中でイレーヌは語っている。
 
“ナチス”という言葉を一度も使用せず、一面的な捉え方では決して描くことのできない敵、味方を越えた目線で描かれた原作を忠実に映像化。そして、残された時間が少ないことを覚悟しながら必死で執筆に取り組んだイレーヌの、誇り高い信念をも引き継ぎ制作された映画『フランス組曲』。敵方へ隣人を密告する住民たち、ドイツ兵と占領下の若き女たちとの秘密の関係やタブーを包み隠さずに描いている。ソウル・ディブ監督は、こうすることが原作者の精神を引き継ぐとともに、母の小説を蘇らせ、2013年、映画の完成を待たずに亡くなった長女ドニーズをたたえる方法でもあると考え、次のように語る。「ドニーズは自分のつらい過去を振り返りたくなかったし、振り返って母親の死を思い出したくなかった。だが、最後にこの本は生き延び、とてつもないベストセラーになった。これは、ドニーズが言う“ある種の勝利”だ。この映画を制作するにあたり、それが今目の前で起きているように、まるでタイムカプセルを開けたかのように感じられるものにする。そして、安全で退屈な歴史作品とはかけ離れた映画にするのだ」




陥落後、密告に怯えながら敵側に身を捧げる銃後の市民を描いた作品を観ることは度々ですが、義母や夫への恩讐を乗り越え愛国心に目覚めた主人公のメンタルがV字回復するのがユニーク。クリスティン・スコット・トーマス名演ですが、手のひら返しには若干の違和感あり。俺の嫁マーゴット・ロビーがブスメイクでドイツ兵とパコパコやっていて泣いた。「German Whore」と罵られながらレジスタンス活動する主人公もいいですが(実際マジョリティだったそうで)、個人的には「German Whore」と罵られながらオンリーさんしている方が、映画としては腑に落ちます。しかし全編「英語」はどうにかならんのか?

以下、名誉よりも生きることを選択した「坊主」参考テキスト。
平稲晶子さん 「丸刈りにされた女たち」―第二次世界大戦時の独仏比較― よりフランスパート引用。
横展開すると、内朝一体下の半島で悶々とした生活を過ごしていた朝鮮男子の心理投影にも等しく、パリ解放の丸刈り=光復後の同一民族による皇軍慰安婦嫌悪〜この破壊衝動的な民族感情(を燃料とする朝日新聞や旧社会党ら反社勢力)が21世紀まで慰安婦問題を引き摺っている原因のひとつかもしれません。

第2節 フランスの事例

1940年6月にフランスはドイツに敗退し、1944年まで地域ごとに異なる方法で占領を経験した。北半分はドイツの占領地区となり、南半分の非占領地区にはヴェルダンの英雄ペタン元帥を国家元首とするヴィシー政府が成立した。1942年にはこの地域もドイツの占領地域となった。アルザス地方とロレーヌ地方の一部は大ドイツ帝国に併合された。

占領下において抵抗活動に参加した人々や、逆に、ナチに政治的に共鳴して積極的にドイツに協力した人々を除けば、大半のフランス人は妥協的で曖昧な態度をとった。ドイツ当局に追われている抵抗運動活動家を匿う勇敢な人が、同時に生活のためにドイツに協力的な工場で働いているということもありえた。ドイツ人兵士と性的関係を持ったとされたフランス人女性たちは、1944年夏の解放時にフランスのほとんど全ての地域で、丸刈りという暴力の標的となった。

1. 時代背景と目的
フランスでは1944年夏の「解放期」に「性的な対独協力(collaboration sexuelle)」をしたフランス人女性に対して、大規模に丸刈りが行なわれた。ドイツからの「解放」と言っても、ある一日を単純にピンポイントで指せるわけではない。アメリカ、イギリス、カナダ連合軍は1944年6月初旬にノルマンディから、8月中旬にプロヴァンス地方からフランスに上陸した。地元のレジスタンス組織も加わりながら、この勢力は各地で守勢に立つドイツ軍と激しい戦火を交え徐々に村や町を解放していった。戦後、これらの村や町は各々「解放の日」を持つようになる。だが、いつを「解放の日」とするかを決定するのは易しいことではない。公的には、ドイツ軍や対独協力者たちに対する蜂起、ドイツ軍の退却、連合軍の来訪、レジスタンスの公然たる登場、ド・ゴールの入城、新しい権力者の任命などのあらゆる出来事を包摂したある一日を指定して「解放の日」としている。だが上記の困難を考慮して、「解放の日」ではなく「解放の日々」と呼ぶ方が適切であるという見方もある。

このように、フランス解放は一瞬の出来事ではなく、過渡期として捉える必要がある。フランスがドイツの占領から脱しようとする時、フランス国内はまさに市民戦争であった。占領中の立場や経験によって、迎えた解放の意味は異なった。フランス解放の写真や映像からは、多くの市民は解放の喜びに包まれていたことがよく分かる。だが同時に、これとは対照的な暗い面もあった。ドイツに協力した人物に対する処刑や復讐的リンチ、つまり「無法な粛清(epuration sauvage)」が行われたのである。

解放の混乱に乗じて蜂起した、にわかレジスタンスとも言える人々で構成される軍法会議(cours martiales)や緊急軍法会議(tribunaux militaries d’urgence)なるものの判決により、およそ1万人が処刑された。処刑された人々には無実の人々や対独協力者としては小物であった人々も少なくなかった。略奪や行き過ぎた暴行も相当な規模であった。丸刈りは、このような「法の外(extra-judiciaire)」で行われた粛清の一つであった。ただし、丸刈りの一部の被害者は、後で述べるように、丸刈りの後に正規の粛清裁判にかけられ、男と同じように刑に服した。

占領下フランスからは、かなりのフランス人男性が、外国人労働者としてドイツへ行って就労しており、家を長期間留守にしていた。特に1943年の強制労働徴用(STO)の開始により、フランスを後にしなければならない男性はさらに数を増した。フランスに残った女性たち、特に戦争捕虜の妻たちは、家の外で仕事をして家族を養う必要があった。自活の手段を探す未婚の女性たちもいた。占領軍としてやってきたドイツ軍は、このような女性に雇用の機会を与えた。仕事は容易なものでなかったかもしれないが、彼女らは外で仕事をするようになり、新しい価値を見出したかもしれない。

他方、フランスに留まっている男性たちはドイツ軍の元で自活した女性たちに、優越性を保つことができないでいた。ドイツ人のところで働いているだけでなく、より親密な関係になったフランス人女性を見ることは、面白くはなかった。フランス解放の時、フランス人男性は占領下での鬱屈を晴らすために、ドイツ軍兵士でなく、ずっと弱い女性たちに暴力の矛先を向けたのであった。

2. 実行者と手段
フランス解放時に集中して、およそ2万人の女性の髪が切られた。これには、県庁、市庁舎、警察、広場、学校、大通りなどの公共の空間が広く利用された。それらは、公的な権力の所在地であり、歴史が刻印された場所であり、市民の集う空間であった。丸刈りは地下から出てきたばかりのレジスタンス活動家とドイツ占領からの解放に湧く民衆との邂逅の機会であったとされる。

ブルターニュ地方では、丸刈りの実行者の80%はフランス国内軍(FFI)、地方解放委員会(CLL)、国民戦線(FN)などの「レジスタンス活動家とそれに同化した人たち(resistants et assimiles)」であった。丸刈りを撮影した写真 からは、女の傍らにいる男たちが何者なのかは明確には分からない。彼らは軍人や警察のような制服を着ていたり、普段着に腕章だけ腕に巻いていたり、制服も腕章も身に着けていないが武器を持っていたりする。また、現場に群がった民衆は、実際に手を下す者たちを大いに煽ったと思われる。自称レジスタンス活動家たちは権威を誇示したがり、民衆は一刻も早く対独協力者たちに仕打ちを加えたいと思っていた。後に続く閉鎖的な法廷とは違い、丸刈りは民衆も参加しやすい粛清の場であった。

パリでは、丸刈りの女性が写っている写真はいくつも残っているが、場所を特定できない記録が多い。だが、路上や公的な建物の中が、丸刈りの舞台として利用されたのは確かである。例えば、エマニュエル・ダスティエが見た光景である。彼は、ドイツ占領中はレジスタンスの組織化に国内外で尽力した人物である。戦後は国会議員として活躍しつつも、レジスタンス時代に地下新聞として出発した『リベラシオン(Liberation)』(1941年から1964年発行)の編集を続けた。議員引退後もジャーナリストとして活動した。彼は解放の混乱の最中、パリ7区の官庁街グルネル通りからバック通りに掛けての出来事を目撃した。

25日金曜日。ある女性が連れてこられて、髪を刈られた。人々は叫び声を上げていた。グルネル通りには区役所を守るために大きなバリケードが出来ていた。4人の髪を刈られた女性からなる列(かなり醜い)がバック通りに向っていた。群集は次第に増えてきて、大声を上げていた。女性の一人がバック通りで逃げようとしたため、捕らえられ、引っ叩かれ、罵倒された。群衆は非人間的だ。この不幸な女性は腰まで服を脱がされ、バック通り102番地の前で跪いた。FFIの一人が彼女を裁くために銃を向け、彼女に謝るように要求した。彼女は上半身裸で跪いたままだった。彼女は窓から銃を発射して3人のフランス人を殺したらしい。荒れ狂った群衆を前にどうすればよいのだろう。

彼女は処刑されるのだろうか。いいや、そうではなかった。フランス人の将校が現れ、彼女を監獄に連れて行くべきだと言った。不幸な女性はいまだに跪いていた。上半身裸のまま。そして口を開いた。「許して下さい。もうしませんから。」目には涙を浮かべてはいなかったが、意識はないようであった。恐れおののいているというより、錯乱しているようだった。この何もかもが卑劣であった。無害に見えた群衆が人殺しをも厭わないほど乱暴な人たちになってしまった。私はおそろしくなった。

「対独協力者を丸刈りにせよ」という命令が全国規模で下さたわけではないにもかかわらず、どうやってフランスの端から端まで、大きな町から小さな村まで広範に伝播したのかという疑問が湧く。解放された町から町へと順に噂が広がったのだろうか。「民俗的伝統」が発露したのだろうか。ある歴史家は、丸刈りに言及したラジオ放送が流されたことが、全国規模でこれが知られる契機になったとほのめかしている。これは、サンデー・エクスプレスの記者がノジャン・ル・ロトゥルーの市庁舎前の共和国広場で盛大に行われた丸刈りを取材したものだった。そこには3000人もの人々が、20歳から60歳までの16人の女性を取り囲むように集まっていた。彼女らは順々に椅子に座らされ、鋏とバリカンで武装した理髪師に髪を切られるがままになったのだった。だが、この放送以前にも丸刈りはいくつも発生しており、この放送の実際の影響力には疑問が残る。

丸刈り現象はフランス解放の時に起こったとされてきたが、1943年6月から1946年5月までの約3年間に及んで丸刈りがおきており、この間に2万人の女性が丸刈りを被ったとされている。占領中が6.6%、解放の日々が67.6%、解放後3ヶ月以内が16.4%、解放後3ヶ月以降が9.4%であった。もちろんフランスの大半の地域が解放を迎えた1944年夏から秋にかけて、圧倒的に集中しているが、3年という期間に件数の差はあるにしても継続的に丸刈りが起きていることは注意すべきことである。時期によって、実行の場所や性格も変化した。特に解放前の丸刈りは、当局に見つからないように、人目につかない場所や女性の家の中で、非公開の私刑として行なわれていた。

3. 被害者
戦後、女性たちが丸刈りにされたのはドイツ人と性的関係を持ったためであったと半ば神話化された形で語り継がれてきた。外国の軍隊による占領という状況下で、日常的に恐怖にさらされながら生活せねばならなかった人々を尻目に、ドイツ人軍人と親しくなることで、後ろ盾を得て、物質的豊かさを享受した女性たちだとされてきた。或いは、若さゆえにドイツ人兵士と純粋に恋に落ちた女性たちだとも考えられてきた。経済的動機からの協力や密告行為など男性と同じように対独協力をした女性も、一様にドイツ人の恋人や愛人とされた。ドイツ人と性的関係を持ったフランス人女性全てが丸刈りにされたのではないし、丸刈りにされた女性全てがドイツ人の恋人だったわけでもない。それでは、実際には、どのような人が丸刈りにされたのだろうか。

10代半ばから60代まで、様々な年齢の女性が丸刈りの対象となったが、特に高い割合だったのは、10代後半から20代後半の年齢層であった。丸刈りにされた女性の既婚率は35.5%であり、フランス全体の55.2%という数字を下回っている。結婚している女性でも、戦争捕虜としてか、強制労働の枠、あるいは、自由意志で夫がドイツで就労している可能性もあった。このことを考慮すると、髪の毛を刈られた女性たちは、フランスで男性と同居していない女性たちが多かったと言える。

丸刈りにされた女性たちの多くは職業を持っていた。彼女らの職業はドイツ人との関わりという観点から主に三つに分類される。
第一に、ドイツ軍が占領を効率よく行うために必要としていた仕事である。メイド、洗濯係、皿洗い、調理補助というドイツ人兵士の身の回りの世話をする仕事や、速記タイピスト、通訳、秘書など、ドイツの出先機関では事務作業をする人も求められた。このようなドイツの機関での仕事は、地元の仕事と比較すると給料が格段に良かった。
第二に、ドイツ人と接する機会が多かった職業が挙げられる。小売店で働く人、レストランやバーの経営者や女給、ホテルや映画館の従業員、理容師などである。ドイツ人を優遇して商売をしていたとして、彼女らに憎しみを覚えた住民がいたのである。また、飲食店やドイツ人専用となった映画館にドイツ人兵士が出入りする様子は住民にとってあまり快いものではなかったに違いない。
第三に、行政機関や学校で重要な地位にいた人たちも丸刈りにされることがあった。彼女らはドイツ人と職業上、接することが多かっただけでなく、実際に対独協力的な政策を遂行する役割を果たしていたため、解放時に彼女らに矛先が向いたのであろう。

頭を刈られた女性たちのうち、ドイツ人兵士と実際に性的関係を持っていたことを咎められた女性は42.1%であったということが明らかになっている。残りの半分の女性たちは、密告者、ドイツへの志願労働者、対独協力的組織に加盟していた者、枢軸国出身者などであった。この42.1%という割合を、多いと見るか少ないと見るかは、議論の余地がある。丸刈りにされた女性たちが全員ドイツ人の恋人とされてきたことを考えると、半分というのは少ないとみなすことができるが、それでも半分というのは相当な割合であるとも言えるかもしれない。今日からすれば私的で自由であるはずの恋愛も、当時はドイツ人との恋愛は対独協力の一種とみなされた。このような形の対独協力は、「添い寝の協力(collaboration horizontale) 」、「性的協力(collaboration sexuelle)」、「愛情からの協力(collaboration sentimentale)」と呼ばれ、当時の文書や新聞、歴史研究書に頻繁に見出された。

ころで、フランスの丸刈りの被害者の多くは、髪を切られたことのみで「罪」を贖ったとされたわけではなかった。彼女らは、丸刈りにされたことに加えて、男性の対独協力者と全く同じように逮捕され、粛清裁判に掛けられ、下された判決によって刑に服すこととなった。彼女らは、二重に「罰」を受けなければならなかったのである。対独協力の疑いで捕らえられた女性たちは、粛清裁判のうちの「法廷(cours de justice)」か、法廷に付属する形で設置された「公民法廷(chambre civique)」において裁かれた。特に後者では、被告人は市民としての適格さを裁かれた。対独協力が市民として許容範囲内とされれば釈放され、そうでなければ「非国民罪(indignite nationale) 」となり、それに対応する刑として「国民権剥奪(degradation nationale)」が科された。

国民権剥奪の刑の数ある項目うちで、女性たちに実際に不利益をもたらしたのは、参政権剥奪と居住禁止であろう。1944年、共和国臨時政府によって女性に参政権が付与され、翌年4月と5月の市議会選挙で実際に投票が行なわれた。フランスにおいて近代以後初めて女性が政治に参加するという歴史的出来事に、非国民罪となり参政権の剥奪を科された女性たちは加わることができなかったのである。

居住禁止は法廷が定めた一定の区域に立ち入ることを禁止する項目である。これを宣告された者は、生活基盤のある住み慣れた地域を出て行き、別の場所で生活を立ち上げなければならない。家族や友人と離れねばならないし、新しく住居や仕事を見つけなければならないのである。別の町に移っても、極端に髪の毛の短い頭をしていればやはり目立ってしまう。ターバンを巻き、鬘を被るなどしてそのような頭を隠しても、馴染みの薄い町で生きていくには相当の苦労があったものと想像できる。法廷で非国民罪よりも重い罪を宣告された者は、死刑、強制労働、禁固刑などに処された。性的協力を行った女性が丸刈りにされたという強烈なイメージによって、女性も男性と同じように性に関係ない形の対独協力で、このような刑に服したということが見えにくくなっている。

セーヌ県の法廷で咎められた行為のうち、最も目立ったのは密告であった。私的な恨みや報酬欲しさからドイツの出先機関やフランス警察に直接出向くか匿名の手紙を送るなどして密告したケースは多く見られた。或いは、ドイツ軍の情報機関のエージェントとしてユダヤ人、共産党員、レジスタンス行為の疑いのある人物を密告することを生業としていた女性も少なくなかった。判例のない状態での審理であったため、県ごとに開かれた法廷はそれぞれ独立した基準で判決を下していた。同じような行為でも、法廷によっては強制労働の刑になったり、国民権剥奪の刑になったりしたのである。

刑務所に収監されている人数について、調査がなされていない県や男女が識別されていない県もあるが、全体の約21%が女性であった。女性の比率が30%を超える県もあった。女性の囚人のあまりの多さに対応するため、女性専用の収容施設が開かれた。1946年、フランス国内には14の女性専用収容施設が存在し、髪の毛のある女性と髪の毛の極端に短い女性が混在していた。(以下略、全文は リンク先参照

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原作のバックグラウンドが面白いのですが、それと本作とは直接関係ない。筆者は「かくあるべき」ラブストーリーを描きたかったんでしょうね。物悲しいです。そして性的蹂躙があったのかなかったのかは置いといて、当地でも草刈正雄さんとか山本リンダさんとか、終戦後〜ベトナム戦争の頃まではそういう境遇の母子家庭はレアケースでなく、今でこそ持て囃される「ハーフ」が「あいのこ」とか「混血」と揶揄されていた頃を描いた映画が観たいなと思いました。

満足度(5点満点)
☆☆☆

以下、しばき隊の言葉狩り会談。




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Posted by kingcurtis 固定リンクComments(0)映画 | 戦争
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