2008年02月11日
北朝鮮・絶世の美人女優 ウ・インヒ(禹仁姫)事件 
こちらで名前が出ていたので
北朝鮮を揺るがす「美人脱北ブローカー」スキャンダル 朝鮮日報
さらりとサルベージ。
禹仁姫は1950年代生まれと称される1970年代の北朝鮮を代表した映画女優。
自由奔放な性格から北朝鮮政府高官100名内外と不倫したと称され、5,000人の人民の前で公開銃殺される。
死後、禹仁姫の写真・肖像画は全て破棄され、主演した映画も他者と入れ替え編集されたらしい。
それじゃ、惠谷治さんがBNNに寄稿された「独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第2部 金正日の女性遍歴の真相に迫る」より当該箇所を引用します。
第2部 金正日の女性遍歴の真相に迫る
第2章 「唯一後継者」の乱れた女性関係
[第35回] 美貌と演技力に優れていた「人民俳優」禹仁姫
金正日が20代だった1960年代の北朝鮮では、成★琳、金賢淑とともに禹仁姫(ウ・インヒ)が3大女優のひとりだった。
禹仁姫は開城市出身で、子供の頃から踊りが上手く、可愛い少女として近隣で評判だった。禹仁姫の生年は定かではないが、1950年代の生まれである。1960年代初め、朝鮮戦争以前に越北していた「人民俳優」の黄徹の目に留まり、禹仁姫は平壌に上京して演技指導を受けるようになった。そして、北朝鮮初の恋愛映画『木蓮の花』3部作でヒロインを熱演し、喝采を浴びた。この映画がきっかけとなり、越北監督である尹龍奎が制作した『春香伝』の主人公である春香役に抜擢され、その名声を北朝鮮全土に轟かせた。
「1978年の夏、宿舎でパルチザンの活動を描いた映画『ある分隊長の話』を見ながら、感歎を禁じえなかった。それは、その映画の内容のためではなく、そこに出てくる女主人公のためであった。面長のその主人公は、大変な美貌の持主で、演技力も素晴らしかった。当時、彼女は20代の後半ぐらいに見えた。初めの1年間、数多くの北の映画を見たが、出演した女優の中で、俳優らしい俳優を発見したのは彼女が初めてだった」(『闇からの谺』下巻42頁)
金正日の命令によって北朝鮮に拉致されていた韓国人女優の崔銀姫は、驚きをもって禹仁姫のことを手記に記している。
美しい女優の常として、禹仁姫には周りからの誘惑が多かったが、禹仁姫もまたそうした誘惑を拒否する女ではなかったために、しばしば「浮華事件(スキャンダル)」を引き起こしていた。禹仁姫はチェコスロヴァキアに渡り映画を学んだ後、北朝鮮で最高の映画監督といわれていた「2・8映画撮影所」の演出家である楊好善と結婚し、3人の娘をもうけた。
「〔朝鮮芸術映画撮影所の仕事をしている〕大叔父の家のまわりには俳優、演出家たちがたくさん住んでいた。隣は禹仁姫の夫である演出家の楊好善の家だった。禹仁姫は金正日が一番可愛がっていた映画女優だった。<略>禹仁姫の娘は母親とそっくりの美女だった。金正日に目をつけられるほどの美貌であったが、『映画俳優になるな』という金正日の指示があって、彼女は女優になれなかった」(『北朝鮮脱出』上巻285頁)
南浦の中央体育学院出身で政治犯収容所に投獄された経験をもつ安赫は、1992年に脱北して韓国に亡命し、発表した手記のなかで禹仁姫一家について以上のように述べている。
監督である楊好善も映画人としては最高の待遇を受けており、母親に似た美人3姉妹とともに禹仁姫一家はどこへ行っても人びとの関心を集め、羨望の的だった。
「結婚後も彼女はしばしばスキャンダルを起こした。禹インヒは、見方によっては男たちの誘惑に乗りやすい身持ちの悪い女であり、別の見方からすれば、自分なりの人生を楽しむことを知っていた女性であった」(『闇からの谺』下巻44頁)
崔銀姫は同じ女優として、禹仁姫について理解ある書き方をしている。
「北朝鮮では宣伝隊員(芸術家)といえば『浮気者』という考え方が反射的に出てくる。北朝鮮のすべての党組織と勤労団体の組織は1週または10日ごとに生活総括(思想批判)をするが、芸術家たちだけは2日ごとに生活総括をする。芸術家というのは浮気心が強く、そのため悲劇的な事件が後を絶たず、社会的物議を醸すので、強い組織にまとめ上げるために、金正日が考案したのである」(『金王朝の極秘軍事機密』240頁)
朝鮮人民軍の建設部隊の中尉で、金日成父子を非難するビラを撒いて、1993年に韓国に亡命した林永宣は、部隊内の宣伝隊員による相互批判が2日おきにおこなわれると述べているが、それは映画人という「芸術家」たちも同じだった。金正日は多くの芸術家たちと接触することにより、彼らの奔放な性格を熟知していたため、思想統制は他にも増して厳しくしていたのである。
[第36回] 在日大物商工人の息子と禹仁姫との出会い
映画人や党幹部の男たちは美貌の禹仁姫に近づき、禹仁姫は結婚していたにもかかわらず、近づく男たちを拒むことはなく、多くの男たちとの関係を楽しんでいた。
禹仁姫の数多くのスキャンダルが広まっていた1978年、全映画人が招集された大集会が開かれ、禹仁姫に対する厳しい思想批判がおこなわれた。しかし、禹仁姫は集会において同僚から指弾されても堂々としており、決して頭を下げることはなかった。自分を批判する映画人の一人に対しては、次のように反論したという。
「あなたはいつか私に何やかやと言いながら、誘惑したことがあるではありませんか」
さらに、真偽のほどは定かではないものの、出席者に向かって次のように言い放ったとも伝えられている。
「では、ここに私と愛を交わさなかった人がいるなら、出てきてごらんなさい。私を抱かなかった人がここにいますか?」
儒教的な道徳律に縛られることがなく、貞操観念のなかった禹仁姫は、自らの心のおもむくままに行動しており、反省することなど期待できなかった。しかし、集会において同僚の映画人たちから罵られた後、禹仁姫は自分が所属する「2・8映画撮影所」のボイラー室の火夫として、労働による「再教育」を施されることになった。
汗と埃にまみれボイラー室で1年ほど働いた後、禹仁姫は1979年、職場復帰が認められた。やがて、『金剛山の乙女』や『私たちの住む故郷』に出演し、再び銀幕で活躍するようになった。また、朝鮮中央テレビの連続ドラマに出演するようにもなった。
朝鮮中央放送委員会が指導・監督する朝鮮中央テレビの放送設備は、金日成と何度も会見したことがある在日朝鮮総連系の大物商工人の資金で購入された日本製だった。この大物商工人は毎年、金日成と金正日の誕生日に「忠誠金」という名目で巨額の献金をしており、ひとり息子の朱正基が日本で放蕩三昧しているので、人間性を鍛え直すために平壌に住まわせることにした。北朝鮮側では大物商工人の意向をふまえ、朝鮮中央放送委員会の副局長の職を用意した。
副局長になった朱正基は、放送設備の予備部品を日本から調達する役割を果たすだけで、日常的には特に仕事をする必要はなかった。すでに結婚して30代前半になっていた朱正基は、父親の気持ちを無視して平壌においてもまた、既婚者であろうと自分の意にかなった女性を見つけては、すぐに関係を迫るなどの問題を起こしていた。しかし、父親の威光があるため、放送局党委員会は何もすることがきないのが実情だった。そのため、彼の行動はいっそう奔放になっていった。
そうしたなかで、ある日、朱正基は放送局の廊下で、禹仁姫と運命的な出会いをした。
「2人は初めて会った瞬間から互いに惹きつけられた。副局長は禹仁姫の美貌に、禹仁姫は北朝鮮人とは違う副局長の洗練された身なりとマナーに惑わされたのである。その日2人は体を重ね、その後も暇があればどこででも情事を繰りひろげた」(『平壌25時』100〜105頁)
外交官だった高英煥は、以上のように書いているが、どこまで真実かは不明である。
しかしながら、北朝鮮にはタクシーというものはなく、もちろん自家用車もないが、朱正基は父親に買ってもらったベンツを乗り回しており、禹仁姫をしばしばドライブに誘った。そして、禹仁姫のサイズに合わせた洋服を日本に特注してプレゼントするなど、禹仁姫の歓心を買うことに成功したことだけは確かである。
そして、1980年のある冬の日、悲劇が起こった。
[第37回] カーセックスの後に一酸化炭素中毒になったカップル
禹仁姫と朱正基の悲劇の経過については少し長くなるが、高英煥の手記を引用することにする。当事者にしか分からないようなディテールは高英煥の想像と思われるが、いずれにせよ手記の内容に近い事実があったことだけは確かである。
「〔朱正基〕副局長は親戚の家へ泊まりに行くという夫人の電話連絡を受けた。心の中で快哉を叫んだ副局長はただちに禹仁姫に連絡して、自分の家にいっしょに来てくれないかといった。その誘いに反対する禹仁姫ではなかった。彼女は自分の夫に、急に撮影の仕事ができたとうそをついて家を出た。彼女を乗せた副局長はベンツを運転し、自分の家へ矢のように走った。ところが家に着いてみると、誰もいないはずの家の中に明りがともっていた。親戚の家に泊まりに行くといった夫人が戻っていたのだった。2人の失望は大きかった。
しかしすでに夜11時を回っていたので、今さら別のところを探すということは、閉鎖的な北朝鮮の社会では無理なことだった。2人は体がとても熱くなっていた状態だったので、そのまま別れたくはなかった。だから、別の方法を考え出した。車庫で夜を明かすことにしたのだった。彼らはエンジンを切った車を母屋から離れている車庫に静かに押し入れた。車庫の中は寒かった。真冬であったし、暖房装置がないところだったのでとても寒かった。車の中にいても体がガタガタ震えるほどだった。
副局長は仕方なく、車のエンジンをかけヒーターを入れた。すぐ車の中が暖かくなってきた。彼らはすぐ事を終えた。そして2人の男女は激烈な情事の後の気持ちよいけだるさを我慢することができずに、車の中で眠りこんでしまった。ところが車から出てきた排気ガスが密閉された車庫の中を徐々に満たし、ついに車の中まで入ってきた。2人はその有毒ガスに酔い、眠った状態で気を失ってしまった」
この排気ガス中毒事件の現場について、1993年に脱北した尹雄は、異なった情報を伝えている。
「彼女〔禹仁姫〕は在日朝鮮人出身の30代前半の男〔朱正基〕と、彼の家に近い森の中で昏睡状態で発見された。2人は素っ裸で、男の自動車の中に倒れていたという。ヒーターをつけっぱなしで『カーセックス』をし、一酸化炭素中毒になってしまったのだ。発見者が病院に運んだが、男はまもなく息をひきとり、彼女だけが一命をとりとめた。一世を風靡する女優が、男とセックスをしている現場を押さえられ、こともあろうに相手の男が死んでしまった事実は、北朝鮮人民にとって、むろん党にとっても驚愕すべき事件だった。しかし、この問題は、ただのスキャンダルではすまなかった」(『北朝鮮、人と欲』13頁)
発見されたとき、朱正基はすでに瀕死の状態で、2人は病院に運ばれ、昏睡状態だった禹仁姫は病院で約二週間の治療を受けた後に健康を回復した。その後の措置について、多くの手記は混乱しているが、当然ながら国家保衛部による詳細な取り調べがおこなわれたことだけは疑いない。
その結果、尹雄が書いているように、この事件は単なる男女のスキャンダルでは収まらなくなった。取り調べにおいて禹仁姫は、自分が関係した党の最高幹部級の名前を次々と告白し、80人以上もがリストアップされたという。驚くことに党の高級幹部のほとんどが網羅されていた。しかし、国家保衛部による尋問は、途中で突然に打ち切られた。禹仁姫の口から、金正日の名前が出るではないかと恐れたための措置だったといわれている。
[第38回] 文化・芸術関係者が総動員された公開処刑
禹仁姫を取り調べていた国家保衛部からの報告を受けた金正日は、禹仁姫を民族反逆罪で公開処刑するように命じたと考えられる。
「ある日、〔万寿台芸術団の〕団員たちは出勤のためにバスに乗るように言われた。私たちはきっと突然の行事ができたのだろうと思い、久しぶりに浮き立った気持ちで雑談しながらバスに乗った。バスはある山の中に入り、滑走路のような広い空き地に私たちを降ろした。すでにそこには他の芸術家を乗せたバスが続々と乗り込んでおり、あっというまに数千名に上る芸術家たちが集まった。舞踏家や音楽家だけでなく、映画俳優、作家など文化・芸術関係者が大勢いた。
前方には白いテントが張られていた。私たちは金正日指導者同志が主催する何か特別な行事があるのだろうと思い込み、互いに前に出て顔を見ようとした。しばらく待っていると、遠くからジープが1台走ってきた。
『禹仁姫ではないか』
近づいてきたジープから降りた人は、誰でもない。トップ・スターの禹仁姫だった。
彼女は肌色の洋服を着ていたが、手首は黒い紐で縛られていた。<略>ジープから降りるとき、国家保衛部の人びとが強引に禹仁姫を引きずり降ろそうとすると、彼女は体をひねって抵抗したが、その姿は凄まじいの一語だった」(『 私は金正日の「踊り子」だった』上巻89頁)
何も告げられず公開処刑に強制参加させられた申英姫は、以上のように回想している。
日付は不明だが、ある日曜日の午前9時に大勢の芸術分野の関係者が、東平壌飛行場にバスで運ばれた。5千人ほどが動員され、群衆の最前列には禹仁姫の夫である楊好善と映画演劇大学に通う娘が座っていた。構内放送が響きわたった。
「今から、民族反逆者である禹仁姫を処刑する」
黒い目隠しをされた禹仁姫がテントのなかの杭につながれると、銃を持った6人の兵士が定められた位置に整列した。
「人民俳優の禹仁姫は、金正日同志の政治的な配慮に対し忠誠で恩返しをするべきところを、浮華放蕩の罪を犯した。これは絶対に許すこときできない民族反逆の大罪であり、ただ今より、人民の名において銃殺刑に処す」
死刑執行官が宣言した直後、銃声が響き渡った。
「6発の銃弾を浴びながらも禹仁姫はすぐには倒れなかった。血しぶきが白いテントに跳ねて、鮮明な絵を描いたが、まだ彼女は地に倒れなかった。すると、執行責任者が禹仁姫に近寄り、頭に拳銃を押し当て、また3発発射した」(『私は金正日の「踊り子」だった』上巻93頁)
拳銃でトドメを刺されて、40代半ばの女盛りだった「人民俳優」禹仁姫は大地に崩れ落ちた。
禹仁姫の銃殺刑については厳重な緘口令が敷かれ、公開処刑に動員された人たちに対して、目撃したことを他人に漏らしたら同様の罪で処罰するという命令が下された。そして、禹仁姫が出演した数十編の映画は上映禁止となり、彼女が写っている雑誌やパンフレットは回収され、墨で黒く塗り潰された。そのため、美貌の禹仁姫の写真は、残念ながら紹介することができない。夫の楊好善は公開処刑後に地方に追放されたが、1年半ほどして再び平壌に戻ってきたといわれている。
禹仁姫の公開処刑については緘口令が敷かれたにもかかわらず、北朝鮮では口コミによって広く知られているが、日本ではあまり知られていないようである。
コメント
身近にこういうヒトがいると周りは本当に困りますよね・・・
Posted by カナシキシウサイ at 2008年02月11日 23:45















