2007年08月30日

オリバーストーン監督 ソンミ村虐殺を映画化へ

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ベトナム戦記映画いえばオリバーストーンといっても過言ではないでしょう。
劇場でプラトーン観た時の衝撃は忘れ難い。
微力かもしれませんが、戦争の抑止力の1つに映画によるリアルな戦場の描写があると思います。
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そしてソンミ虐殺。
無防備無抵抗の民が嬲り殺しにされました。
まさに、ポスト無防備宣言。

観ると激鬱間違いなしと思いますが、おいらの行動習性に従うと100%観ますね。
ストーン監督が再びベトナム戦映画=今回は「ソンミ虐殺」描く−米 時事通信
2007/08/30-14:47
【ロサンゼルス29日時事】米メディアによると、社会派のオリバー・ストーン監督が再び、ベトナム戦争映画に取り組むことになった。同監督は一連のベトナム反戦作品で名高く、新作では、ベトナム戦争時の1968年3月16日に起こったソンミの虐殺事件の実像に迫る。
 新作の題名は「ピンクビル」で、人気俳優ブルース・ウィリスが同事件を調査する将軍役を演じる。同事件では、米部隊が約500人に上る無抵抗のベトナム民間人を虐殺したとされ、発覚の後、米国内でベトナム反戦運動が高まる契機となった。

吉川勇一氏の渾身の翻訳 翻訳「ソンミを振り返る(A look back upon Son My)」より第二章を引用。(吉川さんのサイトで是非全文をお読み下さい)


son my

2. 戦慄の朝
Horrible Morning
 1968年3月16日の早朝、ソンミの村人は、いつもと同じように早く床を離れ、一日の作業を控えての食事の支度を終えた。多くの家では家族が食卓を囲んでいた。ある者はすでに市場に出かけたり、くわを担いで畠へと向かった。春の朝である。小鳥がさえずり、何羽かの鶏が、遅めのときの声を作ったりしていた。村の緑の木々を、朝の露の小さな水滴が飾り、それがここの風景を、一幅の夢幻的な絵のように見せ、素朴と安穏の美をつくりだしていた。

トアン・イェン〔Thuan Yen〕の西部に着地する米軍 そのつかの間の平穏が突如破られた。5時30分、クァンガイ地域ソン・ティン〔Son Tinh〕地区のビン・リエン〔Binh Lien〕(ビン・ソン〔Binh Son District〕)、ラム山〔Ram Mount〕から発射されるさまざまな種類の砲弾が、ソンミ村の4つの集落に炸裂した。耳をつんざくような爆発の音とともに大地の表面が激しく震え、樹木が裂かれ、鶏、あひるがけたたましく鳴き、村人たちの叫び声が聞こえた。30分間続いた砲撃が終わるとすぐに、2機のヘリコプターが飛来して旋回を繰り返しながら、ロケット弾と重機関銃の弾丸を、トゥ・クン、コ・ルイの二つの集落の民間人居留地に撃ち込んだ。ついで、9機のヘリコプターからなる一団がチュー・ライ〔Chu Lai〕(クァンガイ北部にある米軍基地)から飛来し、トゥ・クン〔Tu Cung〕集落の西部水田に着陸、別に11機の部隊が、コ・ルイ集落のゴ〔Go〕小集落の近くにある荒地に着陸した。

 純朴な村民たちは、退避壕に身を隠したり、小屋の中で朝食をとり続けたり、あるいは畠にとどまったりしていたが、みな、それをこれまでにもあったような、普通の掃討作戦だと思い、誰一人として、これから自分たちや仲間の村民たちの上に訪れようとしていた運命を予感したものはいなかった。

 コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。

虐殺は直ちに始まった。 同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。

この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。

 トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第蕎隊と第珪隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー中尉の率いる第犠隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。

自分で負傷したハーバート・カーター米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」


 スティーブン・ブルックの指揮する第蕎隊の一部も同じようなものだった。この小隊の一員だったシンプソンはこう語っている。「一人の女と一人の子どもがこっちから小屋のほうへと飛び出して行った。ブルックス中尉が撃てと命令した。それで私は撃った。女と小さな子どもです。その子は2歳くらいだったかな。」シンプソンは、そのあと10人を殺したと認めている。ヘリコプターが着地する以前、すでに水田にいた農民や水牛に乗った少年などが殺された。主として、ビン・ドン〔Binh Dong〕とビン・タイ〔Binh Tai〕小村落の民間人である。しかし、もっとも戦慄すべき虐殺が起こった場所は、トアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落であった。

路上に転がる多くの死体 ピンクビルへのチャーリー中隊の作戦には、軍曹で米陸軍写真班員のロナルド・ハーバールが加わっていた。彼は、あと11日だけ軍務に服すれば、復員となり故郷に帰れるはずだった。彼が重要な証人の一人であったことは疑いない。彼はこの虐殺を明るみに出すという貢献をした。彼のその行為はアメリカと全世界の世論に強烈な衝撃を与えたのである。作戦に参加したとき、彼は3台のカメラを携えていた。その2台には白黒、もう一つにはカラーのフィルムが入っていた。

DeadWomanWithKasa 虐殺のあと、バーバールは40葉の白黒写真を陸軍に手渡した。だが、残り18枚を手元に残しておいたのだ。事件から18ヵ月後、アメリカ国内でこの虐殺事件が調査されることになった時、バーバールはカラー写真を公開し、それは米国政府を恐怖で震撼させたのだった。この18枚の写真には、撮影者の完全に筋の通った詳細な説明文がつけられていたのだ。ハーバールは、その文章をアメリカの雑誌『ライフ』に発表した。それによると、彼は、1968年3月16日の日の出前、午前6時にチャーリー中隊に加わったが、この作戦について、彼には誰も何も説明しなかったという。ヘリから降りたとき、彼にははじけるような銃撃の音が聞こえた。横目で脇を見ると、いくつもの死体がころがっていた。だが、彼は振り返ることをしなかった。何人かのベトナム民間人、確か15人ほどで、大部分は女と子どもだったが、100ヤード(約90メートル)ほど向こうを歩いていた。突然、米兵たちが、M-16とM-79マシンガンを彼らに向けて発射した。この光景を目撃したハーバールは、自分の目を信じることが出来なかった。ハーバールは別の場所に来たとき、こう語っている。「右手の離れたところに一人の女の姿があり、頭が茂みの上に見えていた。自分以外の米兵たちは、みな、彼女に向けて発砲を始めた。その女をめがけ、何度も何度も発砲を繰り返した。ひたすら撃ち続けた。骨がばらばらになって空中に飛ぶのが見えたんだ。」

すべてを燃やし尽くす カリーの指揮する第犠隊は、トアン・イェン小集落に突入した最初の部隊で、組織的、計画的な虐殺を行なった。米兵はいくつかのグループに分かれ、八方に散って捜索し、ある者は発砲しながら民間人を逮捕し、ある者は小屋を焼き払い、退避壕を破壊するために爆薬を投げ込み、またあるものは水牛や牛を殺戮したり樹木を切り倒したりした。コ・ルイ集落のミ・ホイ小集落でと同じように、米兵たちの全滅作戦は、ここで絶頂に達した。ハーバールの写真はこうした光景をまざまざと記録している。

 米兵たちが年老いたグェン・チ・ドック〔Nguyen Thi Doc〕さんの小屋に突入したとき、彼女の一家は、米といくらかの甘藷の並んだ朝の食卓を囲んで集まっていた。米兵は突入するといきなり食卓をめがけて乱射した。彼女の夫、長男夫婦、娘、そして孫を含む9人がそこで殺された。孫の頭が転がったが、その口にはしっかりとサツマイモの一かけがくわえられていた。ドックお婆さんは傷を負って動けずに横たわっていた。3人の孫だけが、まだ食卓についていなかったので、かろうじて死をまぬかれた。

 そのドックお婆さんの隣家は、ダン〔Dang〕さんの6人家族で、やはり食卓を囲んで坐っていた。突入した米兵たちは彼ら全員に向けて銃を発射し、そのあと家を完全に焼き払った。リ〔Ly〕さん一家の7人は、退避壕の中へと追いやられ、そのあと爆発物で殺された。リエン〔Lien〕さん一家の5人、マイ〔May〕さん一家の6人、そしてグェン〔Nguyen〕さん一家の4人は、誰一人助からなかった。

 トゥルオン・ト〔Truong Tho〕さんは72歳だった。米兵たちは、彼の顎鬚をつかんで庭に引きずり出し、ひどく殴りつけた。そのあと、米兵はトゥルオンさんの顎鬚をあごまで一緒に切り落とし、井戸へ突き落とした後、爆薬を投げ込んだ。ムック・ライ〔Muc Lai〕老人も、米兵たちは顎鬚をつかみ、面白がってそれに火をつけた。

怒りの眼差しを向けている老人ハーバールの撮った写真の一つに、うずくまり、怒りの眼差しを向けている老人の写真がある。

ハーバールは、「この男は歳をとっており、体が震えていてほとんど歩けなかった。彼は何かを大声で叫びたがっているような様子だった。私がそこを去ろうとしたとき、後ろで2発の銃声が聞こえた。」

この二人の子どもが撃たれたとき 米兵は、子どもだからといって、虐殺をためらうことはなかった。もう一人、米陸軍報道部のジャーナリストがこの作戦に加わっていた。ジェイ・ロバーツである。彼はこう語っている。「実にちっちゃな子どもだった。シャツ1枚以外は何も身に着けていなかった。その子はいくつもの死体の上を這うようにやってきて、その一人の手をつかんだ。おそらく母親だったのだろう。私の後ろにいた米兵の一人が、その子から30メートルほど離れたところで片膝をつけた姿勢をとった。そして1発でその子を殺したんだ。」世論に深い衝撃を与えた1枚の写真がある。水田のそばの路上、正面に横たわった二人の子どもの写真である。ハーバールはそれについて「この二人の子どもが撃たれたとき、年上の子どもは、小さいほうの子を庇うかのようにその上に倒れこんだ。だが、すぐ、米兵たちが二人にとどめをさした。」と語っている。

 女性たちはどうだったか。米兵は、彼女たちを残酷に殺害する前に、その身体に野獣のような行為を行なった。14歳になるパム・チ・ムイ〔Pham Thi Mui〕は、その母親の死体のすぐ脇で、米兵によってつぎつぎと輪姦された。彼女の母親は、その直前に、小さな赤ん坊とともに射殺されていたのだ。強姦が終わると、米兵たちは彼女を小屋の中に放り込んで、火をつけた。ムイが家から這い出そうとするたびに、米兵は彼女を押し戻し、ついにムイは焼死し、炎は彼女の母親もその赤子も灰にした。12歳の少女、ド・チ・ギェット〔Do Thi Nguyet〕は、腹部を切り裂かれた。60歳の老女、トルオン・チ・ダウ〔Truong Thi Dau〕さんは、二人の米兵に強姦されたあと、殺された。

固まって立つ女たちや子供 1970年1月19日号の『ライフ』誌に掲載されたハーバールのカラー写真の1枚には、女たちや子どもたちが固まって立っている光景が写っている。その説明はこう書いている。「ハーバールとロバーツは女や子どもたちの一団に近づいていく米兵を見つめていた。その一団の中ほどに、黒いベトナム服を着た13歳の少女がいた。一人の米兵が、彼女をつかみ、他の兵士の助けも借りて、彼女を裸にしようとした。「こいつがどんな身体つきか、見ようじゃないか」と一人が言った。もう一人が「ベトコンだよ、やっちゃえ、やっちゃえ」と言い、さらにその少女に向かって「お前はベトコン用のパン助だな」と言った。
「もう我慢できねぇ」と3人目が言った。
 死体や炎を上げる家々の脇で、彼らがその少女を裸にしようとしている時、母親が彼女を助けようとして、兵士につかみかかり、爪を立てた。
一人の兵隊がその母親を足蹴にし、もう一人が殴りつけた。
ハーバールはその女たちの写真を撮ろうとして飛び出した。写真は、13歳の少女が母親の後ろに隠れ、上着のボタンをかけようとしている様子を写している。
 やがて一人の兵隊が言った。「さて、こいつらをどうしようか」
「ばらすのさ」別の兵隊が答えた。
 M-60の発射音が聞こえた――とロバーツは言っている――そして、私たちがそこへ戻ったとき、彼女たちも、子どもたちも、全部死体になっていた。」

トアン・イェン小集落にある小さな寺に住んでいた一人の仏教僧、チック・タム・トリ〔Thick Tam Tri〕(ド・ゴ〔Do Ngo〕)は無残な殺されかたをした。第犠隊の無線係だったスレッジは言う。「僧侶の服を着た一人の男がカリー中尉のいるところに連れてこられた。彼は『ベトコンじゃない』とでも言いたげな身振りをして見せた。カリーは彼にいくつかの質問をしたが、僧侶はただ首を振って、何度も『ノー・ベトコン』と繰り返すだけだった。やがてカリーは拳銃の台尻でその坊主の口元を殴りつけた。坊主は仰向けにひっくり返ったが、なおも自分は嘘を言っていないと言いたげに両手を振っていた。カリー中尉は、拳銃の先端を坊主の顔にまっすぐに向け、引き金を引いた。頭の半分が吹き飛んだんだ。」

 米兵たちの残酷さが極度に達したのは、彼らが大勢の村民を取り囲み、何十、何百という民衆をことごとく虐殺したときだった。この出来事が起こったのは、グェン・ニュー〔Nguyen Nhieu〕さんの家の隣にあった監視塔の脇の人気のない草原と、トアン・イェン小集落のはずれにあった溝〔現在ある「ソンミ記念館」の東端にあたる)のところだった。カリーの部隊にいた兵士、ポール・ミードロが、CBSテレビのインタビューに対して答えたことが、髪の毛も逆立つようなその出来事の一端を明かしている。

 質問:取り囲まれていたのは何人ぐらいだったんですか?
 ミードロ:40人か50人くらいだったな。
 質問:どんな人たちです?
 ミードロ:男、女、子ども、それに赤ん坊だった。俺たちは、奴らを坐らせていたが、そこにカリーがやってきて、言った。「奴らをどうすればいいのか、わかってるな?」それで俺は「はい、わかってます」と答えた。当然だが、俺は、中尉が、奴らを見張ってろ、と言いたかったんだと思ってた。中尉はそこから離れたが、10分か15分してまた戻ってきて、「何だ、まだ片付けてないのか」「奴らに死んでもらいたいんだよ」と言った。カリーは、10フィートか15フィートほど(4〜5メートル)後ろに下がると、彼らに銃を発射し、私にも射撃を始めろと命じた。私は、彼らに向けて4回ほど掃射を浴びせた。
 質問:何人ぐらい殺したと思いますか?
 ミードロ:自動小銃で撃ったんだ。10人か15人は殺したかもしれないな。 
 質問:男、女、子どもだったんですね?
 ミードロ:男、女、子ども、そして赤ん坊だった。それから、また7〜8人ほどを駆り集めた。俺たちは彼らを小屋の中に投げ込んで手榴弾を放り込もうと思ってた。それで、その7〜8人を運河のほうへ押していった。そこには70人か75人ぐらいの連中がいた。みんなそこに集められたんだ。カリー中尉が……連中のところへ歩いていって、奴らを溝の中に突き落とし、それから撃ち始めた。
 質問:それも、男、女、子どもたちですか?
 ミードロ:男、女、子どもたちだ。350人ぐらいがそんな皆殺しにあうのを、俺はこの目で見たぜ。
 質問:今、あなたはそれをどんな風に思ってますか?
 ミードロ:良心に深く突き刺さってるな。これまでずっと、俺から離れなかった。だが、あの日、神様は俺に罰をくれたんだよ。俺は爆薬の引き金をうっかり引いちまった。それで片っ方の脚が全部吹っ飛んじゃったんだよ。

路上の死体 ミードロだけでなく、カリー付きの無線通信士スレッジも、村の外れまでカリー中尉に同行したと語っている。そこで、スレッジはミッチェル軍曹に会った。カリーがミッチェルになんと言ったのかは聞こえなかった。やがて二人は銃の台尻で彼らを殴りつけて溝の中に落とし、ついで銃を発射した。そのとき、だれかが、「あそこに、子どもが」と叫んだ。スレッジには、男の子か女の子は判らなかったが、一人のこどもが村のほうに走ってゆくのが見えた。小さな子だった。中尉が走ってその子を捕まえ、溝の中に投げ込んでからその子を撃った。別のもう一人の兵士も、同じく、はっきりと語っている。彼は溝の中を覗き込んだ。血の中に、男や女や子どもが、まるで一つの塊のように死体の山になっているのが見えたと言う。カリーは、溝の中で、まだ死なずに立っていたり、膝まづいていたりしている者たちを撃った。ついで彼は、駆り集めてこられたばかりの村民たちを続けて撃った。兵隊のグループが、村民を少人数に分けては溝の中に突き落とし、戻って行った。カリーは1時間半もの間、そこに立って、彼らを撃ち続けた。短時間のうちに、その溝は死体と血が詰まってどろどろとなった。しかし、それでも、運良く生きのびられたものが何人かいて、あとで、その恐怖の模様を語ることになった。その語るところも、他の証言と同じように正確なものであった。それは、トルオン・チャウ〔Truong Chau〕さん(75歳)、ド・チ・トゥイェット〔Do Thi Tuyet〕さん(16歳)、ド・バ〔Do Ba〕さん(14歳)、トルオン・リエム〔Truong Liem〕さん(20歳)の4人で、死体の山の中に埋もれていたために、監視塔から撃つ米兵の銃弾による死を逃れえたのだった。彼らは、この溝の中での大虐殺と同様な虐殺を、次のように語っている。米兵は村民を駆り集め、有刺鉄線のそばに取り囲み、中にいた女性を強姦したあと、15フィート(4〜5メートル)ほど下がると、軽マシンガンを人びとめがけて発射した。死体の山が次々と出来た。

 後に、カリーは、公判廷で、自分の犯罪を隠そうと必死に努めたが、犯罪の事実は極めて明瞭だった。では、チャーリー中隊の責任者はどうだったのだろう? メディナは、虐殺を命令したことなど決してないし、考えたことすらなかった、と言った。もちろん、いくつもの証拠が、彼の言っていることを覆していた。

 1968年3月16日、二人のベトナム人通訳、ドゥオン・ミン〔Duong Minh〕軍曹と、グエン・ディン・プー〔Nguyen Dinh Phu〕軍曹が、この作戦に随行していた。プーはこう語っている。1968年3月15日、機動部隊の司令部は、兵士たちに酔っ払うほどのビールを振舞った。そして明日は皆殺し作戦があるんだ、と言われた。プー軍曹は半信半疑だった。酔っ払うにつれて、そんなことは本当じゃあるまい、と考えたが、しかし、それは本当だったのだ。プー軍曹はメディナとチャーリー中隊の本部にぴったりと同行した。10年後、彼はこう語っている。「銃撃がはじまると、C中隊の本部は、湾曲部の左側面に近い村に移動した。そのとき、生垣の隣に頭を砕かれて死んでいる赤ん坊が見えた。私はM-79でやられたんだな、と思った。十字路のところまでくると、恐ろしい光景が目に入ってきた。道路上に、乱雑に積み重ねられた死体の山、男、女、子ども、そして赤ん坊さえその中にいた。」 当時26歳だったドゥオン・ミン軍曹は、やはり10年後に、こう言っている。「恐ろしい死の光景を見てしまったので、私はすぐにメディナに会いに行き、なるべく穏やかな言い方で彼の残虐な行為への抗議を伝えた。村民が撃たれており、家畜や家が燃やされています、と。メディナはこう答えたんです。『みんな敵さ』 私はすぐに聞き返しました。『いいですか、兵隊は武器や防御器具を持たぬ民間人を殺してはならないんですよ』 メディナは、奴らは俺の部下を相手に戦ってるんだ、と繰り返したんです。それで私は、もしそうなら、あなたの部隊の兵隊が、敵の武器を捕獲するか、あるいは負傷するかしてるはずです。でもそうじゃない。だとしたら、殺されてるのは敵じゃないと言うことになります、と言った。「結局、メディナは困ってしまって、俺はそうするように命令されてるんだ、とはっきり言いました。聞きもしないのに、です。」 メディナはいらいらした顔つきをし、ドゥオン・ミンに向こうへ行け、と命じた。

 兵隊の何人かも、メディナが虐殺の現場を目撃しており、彼自身もこの残忍な行為に関与していたと確言している。メディナの無線通信員、ジョン・ポールは、水田で5人が撃たれたが、うち死んでいなかった一人の女性がメディナの銃によってとどめを刺されたと言っている。また、リチャード・ペンドルトン一等兵はこう言っている。殺戮は終わろうとしていた。何人かの兵隊は、生き残った村民をめがけて銃を撃っていた。小さな男の子が、15人ほど山積みにされた死体の中で、誰かを探しているようだった。その子は、メディナの弾で殺された、と。その日、ソンミへの飛行を担当していたヘリコプターのパイロット、ヒュー・トンプソン下級准尉は、こう語っている。彼は一人の負傷者を見かけた。それで、その場所を明示して、歩兵部隊に救援を要請した。そこへ一人の大尉がやってきて、その負傷者に銃を発射して殺した。後に、トンプソンは、その大尉がメディナだったと確認した。メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。

殺された母子 メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。

 トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。

 ――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。

 ――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。

 しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。

(第2章 終り) 


===翻訳「ソンミを振り返る(A look back upon Son My)」より第二章引用終わり===

【5年後の続きエントリー】
【アメリカのタブー?】オリバー・ストーンが制作断念した「ソンミ村」

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小林完吾さん@じゅっじゅっじゅー19歳♪による日本語版は廃盤の模様です。
19 小林完吾

Nineteen - Paul Hardcastle









コメント
私もこの事件(もはや戦争ではない)を覚えています。当時ニュースで徐々に全貌があらわになっていったこの
ソンミ村の虐殺に震え上がりました。
NHKの報道特集かなにかでも数年後、
放送してました。
これは事実です。確かに鬼畜米英です。
南京事件は事実に基づかない。
Posted by sesiria at 2007年08月31日 16:50
吉川勇一サンは小田実サンの盟友で共にKGBの工作員でしたからね〜
で、反米活動の一環としてベ平連をやってた訳ですから、なんか翻訳にバイアスがかかってるんじゃねいの?〜と邪推しちゃうんですよw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%8B%87%E4%B8%80
Posted by SS at 2007年09月03日 14:50
>SSさん
実は初稿段階ではバイアスについて書いていたのですが、この第2章については政治・思想色抜きで徹底的に鬼畜米英が描かれていましたので、ま、いいかとざっくり割愛。

おいらのブログも引用ネタにもバイアスが掛かっているのでw、送り手側の作為を邪推して頂ければそれも一興だと思います(自分で書いてて意味不明ww)
Posted by kingcurtis at 2007年09月03日 20:26
>おいらのブログも引用ネタにもバイアスが掛かっているのでw

どっかで聞いたような?
あぁ、nikaidou=小山紀彦かw
Posted by SS at 2007年09月04日 13:08
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