2006年08月27日

沖縄戦 渡嘉敷島住民集団自決事件 元琉球政府職員が軍命令は嘘だったと吐露

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全文読む限り、全ての人々が犠牲者だったと勝手に解釈します。
当時について正確に語れる人が次々と鬼籍に入っていく中、真実を語ってくれた方へ感謝こそすれ、中傷するのは日本人ではないと。
日中戦争などの中国側生き証人は、当時の幼稚園児さんなどが一次証人になっていますし・・
政府は事実関係を早急に確認し(聞かれる人も辛い作業だろうが)、教科書への当該記述は速やかに改め、ステートメントを発表して下さいな。
これが事実であれば、赤松大尉の名誉を回復する事が最優先です。
無論、渡嘉敷島だけではなく、座間味島とか色々紛争しているとこも改めて。
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん イザ! 
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決
 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。
 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)
                  ◇
【用語解説】渡嘉敷島の集団自決
 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。
【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法
 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。
                  ◇
≪「大尉は自ら十字架背負った」≫
 「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。
 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻撃。ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。
 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。
 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。
 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。
 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。
 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。
 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。
 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。
 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。
 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。その様子は同社ホームページで視聴することができる。
                  ◇
≪「真実はっきりさせようと思った≫
 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。
 −−なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」
 −−当時の立場は
 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」
 −−渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」
 −−その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
 −−ではなぜ集団自決をしたのか
 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
 −−集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」
 −−赤松元大尉の反応は
 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
 −−住民は、このことを知っていたのか
 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
 −−あらためて、なぜ、今証言するのか
 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
<産経新聞>

記事中でも書かれた、出版差し止めと損害賠償請求訴訟対象の3冊の岩波捏造本はこちら。
所謂、極左バイブル。
岩波の「沖縄問題二十年(中野良夫・新崎盛暉共著)」は廃刊の模様。
家永先生の本は、様々な意味で有名な判決(例えばギネスブックとか法律入門判例とか)、「家永訴訟」に繋がる。
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記事中で集団自決に疑問を呈したと書かれた本
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【参考記事】
バランス取る為に、革マルさんと曽野綾子さんによる当該裁判の見解を転載します。
最初は革マルさん。
沖縄戦「住民強制集団死」書き換えの圧力   週刊かけはし
かけはし2006.6.26号

歴史の歪曲をはねかえそう

大江・岩波「沖縄戦裁判」第4回公判

「つくる会」らの攻撃に立ち向かい裁判支援連絡会を結成

手元に残るのは一日八百円

 【大阪】二〇〇五年八月五日、大江健三郎氏と岩波書店を被告とした、沖縄戦集団死(「集団自決」)訴訟が大阪地裁に提訴された。六月九日には、第四回公判があり、傍聴者は被告側が六割近くになり、初めて半分を少し超えた。原告側は、裁判の内容のわからない者まで動員しているようである。この訴訟については以前「かけはし」で報告したが(06年4月10日号)、改めて訴訟の事実関係を、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会のニュース準備号に基づいて整理しておきたい。
 原告は、梅沢裕氏(元座間味島の第1戦隊長・元少佐)と赤松秀一氏(元渡嘉敷島の第3戦隊長で元大尉であった赤松嘉次の弟)。原告側が問題にした書籍は、岩波書店発行の『太平洋戦争』(家永三郎著)、『沖縄問題二十年』(中野良夫・新崎盛暉著)、『沖縄ノート』(大江健三郎著)の三冊。原告の請求は、,海譴蕕凌渊颪僚佝如販売、頒布の禁止 ⊆婪畊告 0崋嬶全簀判馘垢乏得號円、大江健三郎氏に各五百万円 を支払えというもの。
 請求理由は、右三点の書籍が、一九四五年の沖縄戦の初期に慶良間列島で発生した住民の「集団自決」は、守備隊長であった梅沢裕、赤松嘉次が命じたと記述しているが、これは事実に反し、名誉を毀損、あるいは個人に対する敬愛追慕の情を侵害する、というものである。
 この裁判を支援するためと称して、提訴とほぼ同時に「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」が結成されている。会の代表の南木隆治は、大阪府立高校の教員で、右派教職員組織の大阪教育連盟(全日教連傘下)に所属している。支援する会の顧問には、藤岡正勝(「新しい歴史教科書をつくる会」会長補佐)などが名を連ねている。同会の事務局は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟に反対して活動している「靖国応援団」の構成と同じ。弁護団も「靖国応援団」の弁護士で、「本多勝一名誉毀損裁判」(百人斬り裁判)の原告弁護士とほとんど重なっている。
 この裁判は、軍命令による「集団自決」はなかったとすることによって、日本軍による住民虐殺の事実を抹殺し、沖縄戦の事実を歪め、日本軍の残虐性を「捏造されたウソ」にし、「軍隊は住民を守らない」という認識からの転換をねらうものである。

沖縄線の真実を曲げてはならぬ

 六月九日の夕刻から、エルおおさかで支援連絡会の結成集会が開かれ、太田隆徳弁護士と東谷敏雄さん(子どもと教科書大阪ネット21代表委員)を代表世話人に、小牧薫さん(大阪歴史教育者協議会委員長)を事務局長に、他七人の事務局員を選んだ。小牧さんは、大江さんと連帯し、公判ごとにきちんと学習会をやっていきたいと述べ、参加者全員で、会員・事務局・運営方針など支援連絡会の申し合わせ事項を確認した。
 岩波書店から参加した大塚さん(岩波現代文庫編集長)は、社員の七〇%を集め社内説明会を開いたことを報告し、「この裁判はおかしな裁判だ。重大な事実誤認なら岩波に抗議するはずだがなにもない。今回の裁判は、名誉毀損ではプロ中のプロである秋山幹男弁護士にお願いしてしっかりした論理構成をし、資料については沖縄の人に大変お世話になった。沖縄戦の真実を曲げることを許さないという共通の目的のために闘いたい」と述べた。そして主任弁護人の秋山弁護士は、あらゆる資料を調べて臨んでいるといい、第四回公判の概略を説明した。

援護法に内在した「靖国思想」

 原告・被告とも第三準備書面を提出し、双方ともほぼ主張は出そろった。座間味島での梅沢裕の命令については、本人が健在だから被告側に立証責任があり、渡嘉敷島での赤松嘉次の命令については本人が亡くなっているので原告側に立証責任がある。
 一九八八年、座間味島「集団自決」の件で梅沢裕が沖縄タイムスに抗議をし、沖縄タイムスが座間味島当局に照会したときも、当局は命令はあったとはっきり証言している。座間味島で援護法の担当であった宮村氏が、「命令があったといったのはウソだった」との念書を書かされ押印した件でも、「梅沢裕がやってきて家族に見せるだけだからと頼まれてウソのことを書いた」が今でも座間味島当局の公式見解だ。
 当時女子青年団長だった宮城初枝さんが、梅沢隊長のところに行ったとき、「その場では命令はなかった」と述べていたという件でも、多くの人があったといっている。また別のところでは、軍曹から手榴弾で自決せよといわれている。
 裁判は予断を許さないが、あったかなかったかではなく、本質は当時の住民がどのような状況に置かれていたかだ。村の外には行けない。捕虜になることも許されない。「自決」のみが残されていた。秋山弁護士は、「この全体構造の主張をきちんとしていきたい」と述べた。
 金城実さんが、「『ある神話の背景』(曾野綾子著)を原告側は証拠として完璧だといっている。沖縄復帰直前にやってきて自分の都合のいいところだけつまみ食いして書いたこの本と、記者が長期にわたって取材し一九五〇年に出版された沖縄タイムスの『鉄の暴風』とどちらが真実なのか。ことをはっきりさせるべきだ」と要望した。
 この後、石原昌家さん(沖縄国際大教授)が「軍民一体を意味する住民の集団自決」と題する講演をした。石原さんは、「沖縄戦における住民の集団自決という用語に内在している問題の核心は、日本政府・皇軍(旧日本軍)の戦争責任が免責されるという点にある。集団自決という『援護法』の用語は、沖縄戦が『靖国思想』に立脚した『軍民一体の戦闘』だったという認識に立つものだ。『援護法』適用のための用語である集団自決と『強制集団死』(軍事的他殺)を明確に区別しないと、沖縄戦における住民被害の本質を見誤る」と述べ。以下のように語った。

「集団自決」表現のあいまいさ

 一九五三年、米国の統治下にあった沖縄にも、「援護法」という日本の法律の適用が旧軍人軍属に認められ、さらに一九五八年から「日本で唯一地上戦になった沖縄の特殊事情」という理由で、一般住民にも適用された。ただし一般住民の場合、遺族の申請による「申立書」と現認証明書が必要であった。いかに日本軍に積極的戦闘協力をしたかが、「援護法」適格者として認定される分岐点になった。
 このようにして一九五八年以降の沖縄全域で、日本政府とその事務を代行する琉球政府援護課の行政主導によって、住民の「沖縄戦争体験記述」が推進されていった。申請しても、「消極的協力」などを理由に不適用になった事例も多い。一九八一年以降は、「援護法」の適用を六歳未満の戦没者にも拡大した。「避難壕から追い出」された場合でも、日本軍の作戦・戦闘に協力して「壕を提供」したと書き換えが行われてきた。
 沖縄戦当時、住民の一大避難所と化していた首里以南の南部一帯に、日本軍が撤退し持久戦をとったので、軍民混在地域になり、「避難壕からの追い出し」は日常的に行われていた。壕から追い出され、砲弾にたおれて死んだものは、準軍属扱いにされ、靖国神社に合祀された。「援護法」適用を受けるための「沖縄戦体験記述」は、沖縄戦の真実を歪曲して「靖国思想」に適したものに仕立てあげられなければならなかった。親子友人知人同士の殺し合いである住民の「集団自決」は、積極的戦闘協力のために「殉国死」と位置づけられた。公的機関に提出された「沖縄戦争体験記述」は一般には読むことができない。援護業務が開始された一九五三年以降、沖縄の戦争遺族の靖国参拝が認められた。
 一九六九年、「沖縄県史」第九巻に住民の沖縄体験記録を収録するため、聞き取り調査が開始された。この課程で、「崇高なる犠牲的精神」による住民の「集団自決」は、日本軍の作戦のために指導・強制・誘導・説得・命令などによる住民同士の殺し合いによる死であることが理解されていった。しかしこの段階では、「援護法」用語の「集団自決」という表現の意味は十分理解されていず、曖昧に使用されていた。「集団自決」という言葉を最初に使用したのは一九五〇年発行の「鉄の暴風」(沖縄タイムス取材班)だが、そのことを著者の一人は悔やんでいる。

「沖縄戦体験記録」の二重構造

 「沖縄県史」第九巻の作成に携わった石原さんたちは、この用語をそのまま踏襲してしまい、誤りに気づいたのは第三次家永教科書裁判だったという。家永さんは一九八三年改訂検定のとき「日本軍のために殺された人も少なくなかった」という「住民虐殺」の記述を脚注に付け加えた。旧文部省は集団自決を書き加えるよう修正意見をつけた。これが第三次家永教科書裁判が提起された発端である。集団自決は「日本軍のために殺された」ことを意味せず、「自ら命を絶った」ことを意味する。
 日本軍は、沖縄県民を信用しておらず、軍事的思想に乏しい住民たちだと考えていた。一九四四年十一月に「軍官民共生共死の一体化」の県民指導方針はこのような背景で出される。このような前門のトラ(「鬼畜米英」)と後門のオオカミ(絶対に投降を許さない日本軍)の間の絶体絶命状況の中で、集団死事件は発生したのである。
 国は、「援護法」申請で提出された申立書が一級資料であり、「沖縄県史」は一級資料の内容を書き換えたものである、との立場をとっている。石原さんは、これを「沖縄戦体験記録の二重構造」と呼んでいる。まさにこの点が、いま大江・岩波沖縄戦裁判の争点になっているのである。最近の沖縄の動向として、沖縄県平和祈念資料館運営協議会に一委員が、二〇〇五年夏頃からの本土における歴史修正主義の動きに合わせて、「強制集団死」とあらためたものをもう一度「集団自決」に戻すよう精力的な投稿活動を続けているという。石原さんは、「第三の資料館展示改ざん事件 」の始まる可能性があるとのべ、「小泉首相靖国参拝違憲訴訟」の意義はますます高くなっていると述べた。 (T・T)

曽野綾子さんについては、司法制度改革審議会の議事録より一部抜粋引用。
全体の事情が分からない人は、よく読むべし。
34回司法制度改革審議会議事録

第34回司法制度改革審議会議事次第 日 時:平成12年10月16日(月) 9:29 〜12:10 場 所:司法制度改革審議会審議室
出席者
(委 員) 佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、曽野綾子、睫 剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子
(事務局) 樋渡利秋事務局長

【曽野委員】
過日ちょっと触れましたが、私は過去に書きました数冊のノンフィクションの中から、一つの作品を例に引いて、その作業の困難さをお話ししたいと思います。

 ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。この話は、終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件です。当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていました。

 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。

 当時の資料を列挙しますと、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村、座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府『沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店『沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦』「太陽」(浦崎純著)

 などがあります。これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

 私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。

 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。

 第二に、資料です。

 先に述べました資料のうち、1〜3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。

 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。











コメント
 はじめまして。
ほんと一日も早く赤松大尉の名誉が回復される事を
願うばかりです。
真実を知れば赤松大尉の美談も、心無い人達によって
悪名を着せられる事態になっており親族の方達の苦痛は
察するに耐えがたき事かと思います。

話はかわりますが、貴ブログでよく貼られてる、
WEBページ丸ごとキャプチャーされてる画像は、
どのような方法、もしくはどのようなソフトを使われて
撮られてるのでしょうか?
もし宜しければ教えて頂きたく思います。
Posted by J at 2006年08月28日 15:34
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